21
国境リーグの緊急理事会から1か月ほど経った6月半ば、グニョンは高校のときに使っていた部屋を再び使わせてもらっている山崎釣具店のおばさんと、ティアラにあるスーパーマーケットへ買い物に来ていた。慶尚ホテルを辞めてからは、正式にワイルドキャッツの社員となって働いているグニョンは、山崎のおじさんからもおばさんからも「家賃はいらないからね」と言われていたが、「それでは居づらくなるから」と、月1万円だけ家賃として支払っていた。それでも申し訳ないと思っているグニョンは、時間が許す限り、山崎のおじさんとおばさんが経営している民宿を手伝うことにしていた。
その日は福岡から来た6名の釣り客が宿泊することになっていたため、スーパーで夕食の材料を調達するためにおばさんと一緒に来ていたわけである。
グニョンと山崎のおばさんがスーパーから出て、エスカレーターで地下の駐車場へ向かおうとしたとき、ティアラの前で、タクシーに乗ろうとしていたチェ社長を見つけた。いつもはほとんどスーツ姿だったが、このときはTシャツにジーンズという、チェ社長にしては珍しいラフな格好だった。すでに奥には高齢の男性が乗っている。ホテルを辞めて以来、チェ社長には会っていなかったが、グニョンは一言、チェ社長に「お世話になりました」と言っておきたかった。チェ社長が三島の最も弱い部分につけこみ、三島を利用して対馬の人々が大事にしている土地を奪おうとしたことには、グニョンも怒りを覚える。「裏切られた」「騙された」という気持ちをぬぐうことはできない。しかし、対馬高校へ留学して3年間を過ごした自分の役割を明確にしてくれて、再び対馬の土を踏もうと決意させてくれたチェ社長に感謝の気持ちを抱いていることもまた事実であった。
「社長!」
グニョンは、タクシーへ乗り込んでいたチェ社長に大声で呼びかけた。が、チェ社長はグニョンの声に気づかず、タクシーはティアラを離れ、北の方角へ走り去ってしまった。
「あれは慶尚ホテルの社長さんよね? グニョンが働いていた」
山崎のおばさんがグニョンに問いかけた。
「そうなの。一言、『お世話になりました』って言いたかったんだけど……」
「残念ね。気づいてもらえなかったね」
「いつもと違ってラフな格好だったから、気づくのが一瞬遅れちゃって、声をかけるタイミングが遅かったみたい」
「また、挨拶する機会があるわよ。きっと」
「そうね。さぁ、早く帰ってお料理を作りましょう」
そう言いながらグニョンは地下駐車場へ降りるエスカレーターに乗った。エスカレーターで地下に降り、駐車場に停めてある山崎釣具店のワゴン車へ向かう途中、グニョンはあることに気づいた。チェ社長と一緒にタクシーへ乗っていた老人のことである。グニョンはどこかで見たことがあると思っていたが、すぐには思い出せなかった。ずっと思い出そうとしていたが、ワゴン車に着く直前に思い出すことができたのである。横顔しか見えなかったが、あの老人は、グニョンが通訳を務めた退役軍人会の代表キムである。
仕事柄顔が広いチェ社長が退役軍人会の代表と知り合いであっても驚くことではない。だが、チェ社長のラフな格好から想像すると、プライベートで会っていたように思える。「社長はあのおじいさんとお友だちなのかなぁ……」。グニョンの頭の中で収まりがつかない違和感があった。しかし、チェ社長のすべてを知っているわけではないし、現にチェ社長の裏の顔を知ってしまったグニョンには、この違和感をぬぐう必要はなかった。
翌日の夕方、グニョンはワイルドキャッツ事務局での仕事を終え、帰り支度をしていた。理事長の松尾がテレビのニュース番組を見ている。長崎の地方局のニュース番組である。グニョンが松尾に挨拶をして帰ろうとしたとき、ニュース番組に速報が入った。
画面の横から伸びた手からニュース原稿を受け取ったキャスターが冷静に伝える。
「たった今、ニュースが入ってきました。対馬市で慶尚ホテルなどを経営する韓国人、チェ・テヒョン氏が、本日午後、長崎県対馬市の阿連地区の沖合で釣りをしている最中、海に転落し、水死しました。くり返します。対馬市で慶尚ホテルなどを経営する韓国人、チェ・テヒョン氏が、本日午後、長崎県対馬市の阿連地区の沖合で釣りをしている最中、海に転落し、水死しました。詳しいことがわかり次第、またお伝えします」
一緒にテレビを見ていた松尾同様、グニョンも言葉が出なかった。
「私、昨日、ここの下のスーパーの前で社長を見かけたんです」
数秒後、ようやく口を開いたグニョンは、前日、チェ社長に声をかけそびれたことを松尾に話した。
「そうなのか……。それにしても……釣りをしていて水死とは……ライフジャケットは着けていなかったということか……。」
松尾がそう呟くように言ったとき、松尾の携帯が鳴った。阿比留からだ。
「阿比留? お前もニュース見たんだろう?」
「はい先輩。びっくりしました」
阿比留の声は衝撃の大きさを物語るように少し震えていた。
「グニョンは昨日、チェさんを見かけたそうだぞ」
「そうなんですか……。それにしても釣りをしていて海に落ちるなんて、あまり聞きませんよね。詳しいことはこれから報道されるんでしょうけど、酒井社長から10億円をチェ社長に返済したという連絡はありましたが、あの一件以来、直接プサン側とは連絡を取っていませんでしたね。そろそろプサン側と今後について話し合わなければと思っていたところなんですが……」
「そうだよな……。俺もそう思ってたよ」
「明日にでもパク市長にお前から連絡を入れてくれよ」
「わかりました」
「こんなことになって、先行きがまた不透明になっちまったけど、俺たちがやるべきことはひとつだ」
「リーグを開幕にもっていくことですね」
「そう。それが何より大事だ。必要になったら、俺はいつでもプサンへ行くからな」
「明日、また連絡します」
「おう、そうしてくれ」
そう言って松尾は電話を切った。そして、グニョンの顔を見ながら、
「それにしても大変なことになったな……。グニョンはショックが大きいだろう」
「はい。あのことがあるまでは社長を尊敬していました。今でも少しその気持ちは残っています。だから、昨日、見かけたときに『お世話になりました』って言おうと思ったんです。それを言えなかったのが今となっては、とても心残りです」
グニョンの顔は悲しみに満ちていた。
「チェさんは釣りが趣味だったのか?」
「聞いたことはありません。ただ、クルーザーを持っていて、浅茅湾に停めていました。だから釣りをすることはあったかもしれません。昨日、私が見かけたときは休日のような服装でしたから、あのあとクルーザーに向かったのかもしれません。クルーザーに宿泊したんでしょうか。私にはわかりませんけど……」
「昨日、グニョンが見かけたときは誰かと一緒だったのかい?」
「よく見えなかったんですが、たぶんプサンから来た退役軍人会のキムさんが一緒のタクシーに乗っていました」
「退役軍人会? 去年、市役所の前で抗議行動をしてたあの人たちかい?」
「そうです。私はあのとき通訳をしていたので、怖いキムさんの顔をよく覚えています」
「そうか……。今日も一緒だったのかな? まぁ阿比留も言ってたが、これから詳しいことがわかるだろう。待つしかないな」
「はい」
グニョンと松尾はワイルドキャッツ事務局を後にして帰宅した。
翌日、午前11時をすぎても阿比留から松尾への連絡はなかった。じれた松尾は、直接、阿比留を訪ねることにした。ワイルドキャッツ事務局が入る交流センター、通称ティアラから対馬市役所は、徒歩3分もかからない。松尾はグニョンに留守番を頼んで、ティアラを出た。松尾がティアラから出たそのとき、松尾の携帯が鳴った。阿比留からである。携帯を握りしめながら歩いていた松尾は、ワンコールで電話に出た。
「おー啓、待ってたぞ。今、そっちに向かって歩きだしたとこだ」
「先輩、それがとんでもないことになったんです」
「そりゃそうだよ。プサン側の重要人物のチェさんが亡くなったんだからな」
「違うんです先輩。今朝、プサンに通訳を介して電話したんですが、パク市長は不在だと聞かされて、連絡をもらうよう頼んで待ってたんですが、さっき韓国のネットニュースに『プサン市長であるパク・スンウ氏が収賄容疑で逮捕』と出ていたんです。今朝、自宅で逮捕されたみたいなんです」
「何だって!」
松尾は周囲の人の視線を集めるほど大きな声を出してしまった。周囲の視線に気がついた松尾は、慌てて声を潜めながら確認するように阿比留へ問いかけた。
「パク市長が逮捕されたってことだな?」
「そうなんです。びっくりして、さっき確認するためにまたプサンの市長室に電話したんですが、向こうも何がなんだかわかっていないみたいで、『詳細は後で報告するから連絡を待て』と言われました」
「そうか。それなら待つしかないな」
「こっちでも今、橋本が山猫ネットの韓国法人に電話して詳細を確認しているんですが、まだわからないんです」
「とにかく俺は事務局に戻って、連絡を待ってるから」
「わかりました。詳しいことがわかったらすぐに連絡します」
「頼むよ」
電話を切った松尾は事務局へ戻った。すると、グニョンがかけよってきて松尾に言った。
「大変です。パク市長が逮捕されたそうです」
「グニョンも知ってたのか?」
「さっきプサンにいるお母さんから電話がありました。私が国境リーグで仕事をしているから影響があると思って、知らせてきました」
「そうか。俺もさっきここを出てすぐ阿比留から電話があって知ったよ。それにしても昨日、チェ社長が水死して、今日はパク市長が逮捕されるなんて。もう何がなんだか……、訳がわからないな。グニョンのお母さんは詳しいことを知ってたのかい?」
「賄賂をもらっていた容疑で逮捕されたと言ってました」
「収賄容疑と阿比留も言ってたよ」
「これからどうなるんでしょうか?」
「わからないが、国境リーグを予定通り開幕させるために、やるべきことをやっていくしかないからな。グニョンもこれから通訳としていろいろお願いすることがあるかもしれないけど、よろしく頼むよ」
「はい。私にできることは何でもやります」
松尾とグニョンは、立て続けに起こった一大事に戸惑いながらも、国境リーグのために前を向こうと決意を新たにするのであった。
夜になって、パク市長逮捕の詳細がネットに出てきた。パク市長逮捕の引き金となったのは、チェ社長の水死事件であった。
チェ社長はひとりでクルーザーに乗り阿連地区の沖合に行き、錨を下ろして停泊していたクルーザーから誤って転落。梯子を下ろしていなかったためクルーザーに上がることができず水死したと思われる。たまたま近くを通り掛かった漁船が海面から沈みそうになっているチェ社長を発見し、救助に向かったが、漁船に引き上げたときにはすでに息をしていなかった。
漁船から連絡を受けた警察と海上保安庁がチェ社長のクルーザーを調べたところ、クルーザーには釣り竿などの釣り道具はあったが、釣りをしていた形跡は見られなかったという。釣りをしていた形跡は見られなかったが、一方で、とんでもないものが見つかった。大量のコカインである。
チェ社長は前日、ティアラの前にある親和銀行で大量の現金を引き出していた。その現金の金額と、見つかったコカインの量の一般的な取引額とが一致したため、チェ社長はクルーザーを使ってコカインの密輸を行っていたのではないかという疑惑が生まれた。即日、対馬南警察署から警察庁を通して韓国警察に連絡が入り、その日のうちに慶尚グループ本社に捜査が入ることになった。その捜査によって、かねてから噂として囁かれていたパク市長が国会議員時代にチェ社長に対して便宜を図ったとされるインチョン国際空港建設時の贈収賄の証拠をはじめ、チェ社長とパク市長の贈収賄に関する13もの証拠が見つかったのである。翌朝、パク市長は自宅で逮捕された。しかし、チェ社長とコカインを結びつける証拠は何ひとつ見つからなかった。
チェ社長水死とパク市長逮捕、またふたりの贈収賄疑惑は韓国で大々的に報道され、慶尚グループの株価は急落。慶尚グループは瞬く間に経営危機に陥った。しかし新興のIT企業が株を大量取得して実質的経営権を握ると、関連会社を売却して経営の建て直しに成功した。
逮捕されたパク市長は素直に容疑を認め、翌日、弁護士を通じて市長辞任の意向を示した。わずか3日間で、国境リーグに関わるプサン側の重要人物ふたりがその舞台から姿を消したのである。
22
詳細が判明した2週間後、阿比留と松尾は、ワイルドキャッツのプサン側のふたりの理事に働きかけ、国境リーグを予定通り開幕させるための緊急理事会を開催した。パク市長逮捕を受けてプサン市の行政機関の責任者たる人物の出席を要請したが、行政の混乱を理由に断られてしまった。もともとパク市長、チェ社長の言いなりで理事として名前を連ねていただけのプサン側のふたりの理事は、緊急理事会の冒頭で理事を辞任。それによりワイルドキャッツの理事は日本側のみになった。が、プサン側のふたりの理事が辞任を表明した直後、1か月半前に救世主として理事に加わった辻村が韓国語で声を発した。
「おい、入れ」
辻村の声に促されて男性3人が入ってきた。見た目から判断すると、80代、50代、40代に見える。3人は、それぞれスーツの内ポケットから小切手を取り出した。そして辻村が言った。
「この3人は、うちの会社の韓国法人の役員とそのお兄ちゃんとお父ちゃん。それぞれ1億円資金提供するから理事に加えてちょうだい。いいだろ? 阿比留~。今日こそは俺の頼みを聞いてくれるよな~」
その場にいた全員があっけにとられる中、阿比留が声を出した。
「お前、ふたりが理事を辞めるって知ってたのか?」
「知りはしないさー。でもまぁこうなるだろうことは予測してたよ。ふたりはもともと国境リーグなんかって思ってるわけだろ。そもそも途中で消滅すること前提で理事になってたわけだから。だったら代わりが必要になるだろうって思うのは当然だろ? リスクマネージメントしておくのは当然だよ」
「だったら今日の前に俺か先輩に相談するべきだ!」
阿比留が辻村を睨み付けながら怒鳴った。
「だって、お前さー、俺のこと嫌ってるからさー、うちの会社の関係者を理事にするなんて言ったら、確実に怒るだろう。だから今日まで黙ってた」
「あー怒ったよ。騙し討ちをくらった今の方が余計に腹が立ってるよ!」
辻村への怒りを抑えられない様子の阿比留を見ていた松尾が諭すように声をかける。
「まぁまぁ啓、とにかく落ち着け。辻村がここまで用意してることにはびっくりしたが、現実的にプサン側の理事が居なくなったら、国境リーグは運営が厳しくなるのは間違いないぞ。山猫ネットの関係者だとはいえ、韓国人の3人が理事に加わってくれたら、それはありがたいことじゃないか」
「そ、それはそうですけど……」
松尾の言葉で阿比留は少し冷静になった。
「さすが理事長はわかってるねー。ほら阿比留もさー、認めてくれよー。黙ってたのは悪かったよ。でもな、この3人は、専務理事だったチェ社長やさっき辞めたふたりの理事と違って野球を愛してるぞー。うちの役員のお兄ちゃんは無名だけど元韓国プロ野球の選手だし、お父ちゃんもずっと少年野球の監督をしてたんだ。うちの役員のこいつもプロにはなれなかったけど、ずっと野球をやってきたし、今でもプサンの草野球リーグで監督をしてるんだ。だから、この3人なら韓国の人たちも国境リーグの理事として認めてくれるよ」
「それじゃ辻村は、プサン側の理事ふたりが辞任することを想定して、野球に関わりが深い人材を探していたということか。たった2週間で……」
独り言のように呟いた松尾が信じられないという顔をしている。
「チェ社長が亡くなり、ふたりが辞めても辞めなくても1億円用意すれば理事に加われることは知ってたからね。俺もそうだったし。むしろ3人のために3億円を用意する方が大変だったよ。どうやって捻出するかっていろいろ悩んだよ。会社の資産を使うわけにはいかないからさー。まぁ時間があれば何とかごまかすこともできたんだろうけど、俺が個人的に持ってた大阪のビルを売っちゃったよー。それで何とか用意できたんだぞー。だからさー阿比留~、お前も認めてくれよ~」
辻村はさらっと言ったが、その場にいた阿比留、松尾、三島らはあっけにとられていた。
「お前、ビルを売って3億円を作ったっていうのか?」
阿比留が声を発した。
「そうだよ。だってそうしなきゃ3億なんて作れるわけないじゃん。海人に頼まれて2か月前にも1億円使っちゃってるしさー。もう俺は個人的にはすっからかんだよー……って嘘だけど」
辻村はスーツのポケットを叩きながらおどけてみせた。
「お、お前……、何でそこまでするんだ?」
もともと辻村を心から信用できないでいる阿比留は、辻村の行動力に恐怖心すら覚えていた。しかし、辻村に対して先入観を持たない松尾は、その決断の早さと行動力に尊敬の念すら抱いているようである。
「啓、辻村は国境リーグを成功させたいと心から思ってるんだよ。だから、2か月前と今回で4億円ものお金を出してくれてるんじゃないか。昔のことはわからんが、今の辻村は本当にお前の力になりたいって思ってくれてるんだと、俺は思うぞ」
松尾の助け船に辻村はすぐに乗っかってきた。
「いや~、もう1回言っちゃおう。さすが理事長はわかってるねー。その通り。国境リーグは絶対成功させなきゃ対馬は終わっちゃうからさー。海人のようなスター性がある選手がいて、国境を越えて試合をするわけだから、開幕したら絶対に盛り上がるって。そこに何としても持っていかなきゃダメ。そのために俺はできることをやっていきたいって思ってるわけよー。阿比留もそろそろ俺を認めてくれないかな~?」
「わかった……。3人の理事就任を認めるよ。もともと理事でもない俺に認めないという権限はない。常務理事である三島さんと他の理事の方々は、3人の理事就任を認めますか?」
「はい。異議はありません」
阿比留に問いかけられた三島が答え、辻村と他のふたりの理事も頷いた。それを受けて松尾が理事長として理事会を仕切り始めた。
「え~、それでは正式にプサン側の理事として、こちらの……、あっまだお名前を聞いてなかったな……」
「アン・ソンス(安善朱)です」
「アン・ソンテ(安善泰)です」
「アン・ソンギュ(安善求)です」
3人は、父、兄、弟の順にそれぞれ名乗った。
「アンさんね。それでは3人のアンさんを国境リーグの理事として迎えることにします。本日はこれにて閉会といたします」
松尾の言葉によって緊急理事会は幕を下ろした。
「バンザーイ。よし。これで終わったな。急いで帰らなきゃ。今日は夕方からテレビショッピングの生放送があるんだ。ヘリ飛ばして来てよかったー。それじゃ阿比留、また来るよ~。理事長も三島ちゃんも、ほかのみなさんもよろしくね~」
そう言うと、辻村は急いで出て行った。
23
辻村が出て行った後、松尾が阿比留に言った。
「啓、辻村は昔からあんなに先が読めるような人間だったのか? 商売で成功する人間ってのは、辻村みたいな奴なんだろうな。今日はつくづくそう思ったよ」
「高校のときからそういうところはあったと思います。でも成績はトップクラスというわけではなかったですね。特別に勉強ができるわけではなかったんですが、人の心をつかむことが上手で、俺から見れば、人の心を操っているような気がしてました。だからあいつを今でも信用しきれないんです」
「そうか。今日、辻村って男のすごさを肌で感じた気がするよ。お前のことは小さい頃からよく知ってるからわかるが、お前は、辻村のような奴は苦手だよな」
「そうなんです。できることなら関わりたくない奴なんです。本当に。でも国境リーグのことを考えたら、もはやそういう個人的な好き嫌いなんか言ってられませんね」
阿比留は松尾に諦めたような表情を見せる。すると、松尾と阿比留のやりとりを横で聞いていた三島が口を開いた。
「辻村さんは若い頃、東京にいらしたんですよね?」
「そう聞いていますが、本人が東京の頃のことは話そうとしないみたいで、どこで何をしていたかについて詳しく知っている者はいないんです」
阿比留が答える。
「私、30年位前、現役引退を考えていた頃、ちょうど80年代後半のバブル全盛のときに、辻村さんとお会いしていると思うんです。パーティーで」
驚いた阿比留が聞く。
「何のパーティーですか?」
「ある相撲部屋の力士の大関昇進パーティーでした」
「相撲ですか……」
松尾も会話に入ってきた。
「当時のジャイアンツの球団社長が懇意にしてた相撲部屋の力士が大関に昇進して、選手も何人か呼ばれて出席したんです。シーズン中だったんですが、引退間近の私は2軍暮らしだったんで呼ばれました」
「そのパーティーで辻村と?」
阿比留の問いかけに三島は自信なさそうに、
「はい。私は辻村さんだったと思うんですが、正直、自信はありません。何という会社だったか、もう覚えてないんですが、商社の社長のお付きという感じで来られていて、名刺をもらいました。ですが、辻村という名前ではありませんでした。確か社長と同じ名字だったと思います。髪形も長髪を後ろで束ねてて、あの頃、俳優の江口何とかがしてた、若い人がよくしていた髪形でした」
「あいつに長髪は似合わないでしょうね」
阿比留が半笑いで言う。
「そうですね。私は似合っていなかったと思います。でも、あの方が辻村さんだったのか定かではないですからね。私の印象では、あの声と話し方、雰囲気は間違いなく辻村さんだったと思うんですけど、一度だけ聞いてみたんですが、『違う』と否定されました」
「辻村は東京にいた頃のことを話したがらないんだろう? なぁ啓?」
松尾が阿比留に聞く。
「そうなんです。東京にいたことは確かみたいなんですが、偶然、東京で会ったという同級生がいるんで。でも本人は東京にいたときのことは誰にも話さないんですよ。聞かれてもごまかしてすぐにその場からいなくなっちゃうみたいで」
「何か言いたくない思い出でもあるのかなぁ」
松尾が言う。三島は、
「仮に私が会ったあの人が辻村さんだったとしたら、お幸せそうでしたよ。一緒にきれいな奥さんも来られてましたし」
「あいつやっぱり結婚してたんだ!」
阿比留が顎を上下に揺らしながら言う。
「本当にきれいな女性でしたよ」
三島の言葉を聞いた阿比留が急に話題を変えた。
「そう言えば三島さん、奥様はお元気ですか?」
「あ、はい元気にしています。確か阿比留さんは妻と同級生なんですよね」
「そうなんです。実は、密かにあこがれていました。美紀さんに。中学のときに三島さんの活躍を美紀さんと話したりしたこともあったんですよ」
「はい。家内から聞きました。阿比留さんが対馬市長選挙に出馬されるという新聞記事を読んだとき、『私、この阿比留くんと同級生で、あなたの活躍をふたりで語り合ったことがあるのよ』って言ってました」
「覚えててくれたんですか~。うれしいな~」
阿比留は喜びのあまり、少し跳び上がった。
三島豊は、現役選手だった26歳のときに結婚し、ひとりの女の子に恵まれた。しかし、現役生活に別れを告げた翌年、1990(平成2)年、38歳のときに12年連れ添った妻と離婚。小学生だった長女の親権は妻が持ち、三島は養育費を支払うことで合意した。現役引退後の三島は、端正な顔立ちから野球解説者として活動するかたわらでタレント活動も行うようになり、1995(平成7)年には、ある劇団の舞台に元プロ野球選手の役で出演する。その劇団に、かつて阿比留が恋心を抱いていた大田美紀がいた。高校の演劇部で演技に目覚めた大田美紀は、東京の日本大学芸術学部へ進み、演劇の道を志す。そして大学の仲間たちと立ち上げた劇団の看板女優となり、知る人ぞ知る演技派の女優として名を馳せていた。その劇団に三島豊が客員として出演したのである。現役時代から三島のファンであった大田美紀と、大田美紀の演技に対する情熱に感銘を受けた三島は、互いに独身だったこともあり恋仲となる。そして2年の交際を経て結婚。2000(平成12)年に長男、翼が誕生した。
忙しい三島がフューチャーズの野球教室に参加するようになったのは、島の子供たちに夢を与えたいという三島自身の思いはもちろん、対馬出身の妻から「是非お願いします」と頼まれたからでもある。阿比留は、市長となり、フューチャーズの野球教室に参加している三島と会話を交わすことはあったが、三島の妻が、かつて自分が恋心を抱いていた大田美紀であることは知らなかった。しかし、辻村が理事に加わった緊急理事会の後、松尾から三島の妻が自分と同級生であった大田美紀であることを聞かされていた。
「今、家内は東京の家と、息子が入院している福岡を行ったり来たりしています。女優を続けているので、息子に付きっ切りというわけにいかなくて……。福岡の病院に入院したのも家内の両親が付いていてくれるからなんです。かなり高齢なので迷惑をかけてしまうのも申し訳ないと思ってはいるんですが……。国境リーグが開幕したら家内も必ず観戦に来ると言ってますので、阿比留さんも家内に会ってやってください」
三島の言葉を聞いた阿比留は込み上げる笑顔を隠すことができなかった。
「啓、目がにやけておかしくなってるぞ」
松尾にそう言われて、阿比留は両手で軽く顔を叩いてみせた。

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