『国境リーグ』とは?
『国境リーグ』は、2019年からAmazon Kindleで電子書籍版の販売を開始し、2020年には紙本版も販売を開始したエンターテイメント小説です。版元は株式会フロイス、作者はたからべさとし。
自分で書いた小説を自分の会社から出版したわけです。客観的に見たら、相当痛い奴ですよね。そう思われても仕方ありませんが、どこかの出版社に持ち込んで出してもらうなどは一切考えませんでした。せっかくAmazonというプラットフォームが存在するわけですから、これを利用しない手はないと思っていました。電子書籍版の製作は外注しましたが、紙本版はInDesignを使って自分で組版をやりました。アイキャッチ画像でもある表紙は長く付き合いがあるイラストレーターに格安でお願いし、裏表紙や本文中のイラストはココナラでイラストレーターを探して、やりとりしながら描いてもらいました。当時は、東京在住でしたので、必要な写真は対馬市の観光商工課に依頼して提供してもらい、観光商工課になくてどうしても必要だった写真は、当時80代前半だった親父にフィルムカメラで撮ってきてもらったりしました。校正は、40年近い付き合いがある国語のスペシャリストである友人に格安のギャラ+横須賀へのドライブディナー1回でお願いしました。手作り感満載の本です。とはいうものの書籍コードはしっかり取得しましたし、完成後は国会図書館へ献本しましたので、今でも検索すると表示されます。
実は、現在ではAmazonでの販売はしていないのですが、Amazonでの株式会社フロイスのアカウントを閉鎖する際に『国境リーグ』の販売停止を行っていなかったため、現在でもAmazonで『国境リーグ』と検索すると、販売ページが表示され、「在庫切れ」と出てしまいます。そのことに気付いてから、カスタマーセンターに電話をかけ、「表示されないようにして欲しい」とお願いしましたが、私が著作権者であることが認められませんでした。何度か試みましたが、認められず、現在でもその状態が続いています。その後も検索して表示されるページから、「アカウントが存在しない販売者の商品が表示されるのはおかしい」と抗議していますが、販売ページは未だに表示されています。私のミスなんですが、何とも融通が効かない、理不尽な対応に憤りを感じています。
『国境リーグ』誕生のきっかけ
2006年、高校生スポーツの特派員記者となった私は、プレ創刊号の企画として、母校である対馬高校野球部を紹介する記事を書きました。その前年の夏の選手権長崎県予選で対馬高校は久々の3回戦進出を果たし、その3回戦も6-7の僅差で西海学園に敗れていたため、離島のハンデを乗り越えての躍進というスタンスで記事を書ければと考えたからです。加えて対馬高校野球部は、プロ野球選手を2人も輩出しているという事実があるのです。阪急ブレーブスなどで活躍した原田賢治さんと日本ハムファイターズで活躍した小島善博さんです。2人ともピッチャーでしっかり1軍で勝ち星をあげています。原田さんは私の1つ先輩で、野球部にいた私の従兄弟とバッテリーを組んでいました。小島さんは私の2つ後輩にあたります。甲子園とは無縁の離島の野球部から2人もプロ野球選手が出ているなんて、ちょっとしたミラクルであり、高校生スポーツのプレ創刊号の企画として対馬高校野球部は格好のネタでした。
企画の採用が決まると、広島で1件陸上競技の取材をして、そのまま実家へ帰り、対馬高校野球部を取材しました。当時の監督は対馬高校OBで私の1つ下の後輩でした。その先生からいろいろと話を聞いて記事を書いたのですが、「対馬で韓国の高校の野球部がキャンプをしていて、練習試合を申し込んでくるものの高野連の許可が必要だから受けることができない」や「県大会などで勝ち上がって次の試合まで3日以上開いた場合は、一旦対馬へ帰って授業を受ける」という話を聞いたとき私は、「これは対馬を舞台にした小説のネタになる」と考えたのです。加えて、当時、元ロッテオリオンズの村田兆治さんが「まさかりドリームス」という野球チームを結成し、離島の子どもたちに野球を教えるという活動を開始されたというニュースが新聞などで報じられていました。ちなみに高校生スポーツ、高校生新聞を発行しているスクール・パートナーズの当時の社長は村田兆治さんの弟さんです。
私は、ここからとても長い年月をかけて『国境リーグ』を執筆しました。プロットを何度も練り直して、書いて、書き直してをくり返しました。仕事の合間に執筆ということもあって、かなりの時間がかかってしまいましたが、ようやく納得がいく形で『国境リーグ』が完成したのは2019年の春でした。
『国境リーグ』の舞台、対馬とは…
『国境リーグ』の物語は、序章から始まり、1章から52章まであり、終章で終わります。序章は2001年、1章は2015年、最後の終章は2019年という設定ですが、物語とは直接関係ない0章が存在します。国境リーグの舞台である対馬について述べた章です。ところが、電子書籍版の出版を開始した2019年の直後から対馬の状況が一変しました。コロナ禍があり、対馬とプサンを結ぶ定期航路が運行停止になったためです。コロナ禍の前にも日韓関係の悪化により、観光客は減少していましたが、コロナ禍がとどめを刺しました。『国境リーグ』0章で紹介した対馬の現状が、当時と異なるため、このWeb版では、あえて0章は割愛します。ですが、対馬とはどんなところか、0章に書いたことを引用しながら説明しておきます。
長崎県に属す対馬は、九州と朝鮮半島の間に浮かぶ離島で、上島と下島のほか、100以上の島々からなります。2025(令和7)年9月末時点の人口は26,571人。時代が昭和から平成に変わる頃は約6万人でした。平成の30年間に対馬の人口は半減し、更に減り続けています。日本のほかの離島同様、過疎の島です。
島の大半は山地で、幾重にも稜線が重なる山々には、天然記念物ツシマヤマネコをはじめ、多くの固有動物が生息しています。島の北部にある野生生物保護センターでは、雄のツシマヤマネコ「かなた」が飼育されています。韓国展望所近くの鰐浦には、大陸系植物のヒトツバタゴ(別名ナンジャモンジャ)が自生しています。
野生動物保護センターで飼育されているツシマヤマネコのかなた。
愛くるしい姿が人気
島を囲む海や、島を南北に分ける浅茅湾には、タイ、イサキ、アジ、イカ、アワビ、ウニなどの海の幸が豊富で、獲ったばかりの新鮮な魚介類を石英斑岩という石の上で焼いて食べる石焼き料理が名物です。波穏やかな浅茅湾では真珠の養殖がさかんで、シーカヤックなどのレジャーを楽しむことができます。
また対馬は、渡り鳥の休憩地のひとつであり、春や秋の渡りの時期には、数多くの渡り鳥を観察することができます。島の北部、佐護地区にはバードウォッチングを楽しむスポットがあり、オオワシやナベヅルなどの大型の野鳥も観察することができます。バードウォッチングを楽しむために、遠くから対馬を訪れる人も少なくありません。
対馬と韓国との最短距離は50㎞を切っています。最北部の韓国展望所や異国の見える丘展望所などからは、条件が良ければ朝鮮半島を見ることができます。肉眼で外国が見える場所は、国内にいくつかありますが、対馬北部から見える朝鮮半島ほどはっきり外国が見える場所は、樺太南端のクリリオン岬が見える北海道の宗谷岬くらいではないでしょうか。
邪馬台国について記述している「魏志」東夷伝倭人の条、通称「魏志倭人伝」にも登場する対馬は、日本が倭とよばれるようになり、「国」という概念でまとまってからは、常に大陸と向かい合ってきました。663年の白村江の戦いで倭が敗れた後には、国防の最前線として防人が派遣され、非常時に備えていました。浅茅湾に面した山の斜面に石塁などが発掘された城山(金田城)では、防人たちの居住がうかがえる建物跡が見つかっています。
平安時代以降、刀伊の入寇、元寇、応永の外寇と、歴史上、対馬は幾度も外国に攻め込まれています。朝鮮半島との関係では、貿易による恩恵を受ける一方、国家の狭間で苦悩してきました。江戸時代初期には、日本と朝鮮の関係改善をはかるために、対馬藩主宗義智は国書改竄まで行っています。明治時代には日本とロシアが対馬沖で交戦した日本海海戦の舞台となり、島の北部には記念碑が建てられています。
歴史的な観光スポットがあり、美しい景観、レジャースポットなど、多くの観光資源を抱える対馬ですが、近年は、人口減少による税収悪化等により、市の財政は逼迫しています。
その厳しい状況に光を灯したのは、韓国との交流でした。
対馬の玄関口である下島の厳原港、上島の比田勝港と、韓国のプサン港を結ぶ高速艇が定期便となったのは2000(平成12)年。その頃から対馬と韓国、特にプサン市との間では、国際交流がさかんになりました。長く対馬の中心として栄えてきた厳原で、「港祭」として行われてきた夏祭りが、一時期、プサン市などから要人を招き、朝鮮の民族舞踊なども披露される「アリラン祭」と名を変えました。対馬空港のそばにある対馬グリーンパーク広場では、韓国と日本のミュージシャンによる野外コンサート、「ちんぐ音楽祭」が開催されるようになりました。島の北部では、韓国人ランナーも参加して、国境マラソンin対馬が行われ、日韓スポーツ交流も行われてきました。
学びの場での国際交流もさかんになりました。対馬では最も生徒数が多い対馬高校では、国際文化交流コースが設置され、日本の公立高校で唯一、韓国語を専門的に学ぶことができるようになりました。韓国に留学する学生や、韓国から対馬高校へやってくる留学生もいます。国境リーグに登場するグニョンも高校生のときに韓国からの留学生として対馬へ初めてやって来ました。
定期便が就航するようになった初めの頃は、釣りを主な目的とした観光客が多かったのですが、しだいに釣り以外を楽しむためにやって来る観光客も増えていきました。過疎に悩む国境の島では、韓国人が落としていくお金は、宿泊施設や飲食店などの重要な収入源となっていきました。やがて韓国人が経営するホテルができると、観光客の数は一気に増加。2017(平成29)年には、とうとう韓国人の観光客の数が対馬市の人口の10倍に達しました。観光客の数が増えると、島内のさまざまな場所で韓国語が飛び交うようになりました。厳原にある対馬市交流センターの商業施設である通称「ティアラ」では韓国人の姿を見ない日はなくなりました。観光客相手の免税店は1店、2店、3店とその数を増やしていきました。
島のあらゆる場所で住民と韓国人が接触するようになると、島の住民にとっては、文化の違いだと理解できないこともあり、韓国人が膝を立てて食事することを「行儀が悪い!」と注意し、喧嘩になることもありました。高齢者には、韓国人に対する差別意識が根強いことも事実です。子どもの頃、「在日」と呼ばれる人々の話す日本語がカタコトであることをバカにして、からかった経験を持つ高齢者は少なくありません。
残念ながら、韓国人による犯罪も発生するようになりました。無銭飲食や万引きなどだ。万引き目的で対馬にやって来る韓国人も出てきてしまいました。もともと犯罪の少ない対馬には、防犯カメラを設置している店が多くなかったこともあり、そこを狙って、犯行を重ねる韓国人もいました。全国的なニュースになった事件もあります。ようやく2025(令和7)年に返還が実現しましたが、島の中ほどに位置する観音寺に安置されていた貴重な仏像が窃盗団に盗まれ、犯人が逮捕されてもなお対馬への返還がなされなかった事件です。
韓国との交流には、少なからず問題を抱えていた対馬ですが、対馬の経済に韓国との交流は、なくてはならないものとなっていました。しかし、先述したように、日韓関係の悪化にコロナ禍が追い打ちをかけ、状況が一変。韓国人観光客の姿は消え、観光業に携わっていた多くの人が仕事を失いました。そんな中で核のゴミ処理施設を受け入れて国から交付金を得ようという動きが再燃するなど、対馬市の経済は危機的状況にあり、韓国人観光客に支えられていたということが改めて浮き彫りになったように思います。
2024(令和6)年にプサンとの定期便が再開され、現在では、『国境リーグ』の頃に戻ってきました。以前よりも若い観光客の姿が多くなったような印象があります。韓国人観光客は戻ってきましたが、人口減少は歯止めが利かず、私が入学した頃は5クラスあった当時島で最も生徒が多かった厳原小学校も現在では1学年1クラスにも満たない生徒数です。『国境リーグ』に登場する阿比留市長は、市の財政状況に頭を悩ませていますが、現実も相当厳しい状況であることは変わりありません。
『国境リーグ』Web版をお読みいただく前に…
国境リーグ第1章は、韓国人観光客がとても多くなった2015年の秋から始まります。居酒屋での韓国人に対する差別、村田兆治さんが始めた野球教室をモデルとした元プロ野球選手たちが指導する少年野球教室から物語が動き出します。さまざまな事件が起こり、後半少しずつ謎が解き明かされていきますが、『国境リーグ』では、位置関係を把握していただくために最初に対馬全体と主要な舞台となる厳原の町の地図を掲載しています。名称が実際のものとは異なる場合がありますし、正確な地図ではありませんが、位置を把握することで、「いつか行ってみたい」と思っていただけたら幸いです。

それでは『国境リーグ』Web版をお楽しみください。


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