Panierを運営するfroisのプロフィール

はじめまして。
長崎県対馬市在住のfroisこと財部智(たからべさとし)と申します。
Panierをご訪問いただきありがとうございます。
Panierとは、フランス語でバスケット。
テーブルでワインを寝かせて入れておくカゴがありますよね。
あのカゴです。女性が着るペチコートも同じつづりですが、
カゴの方です。
ワインに限らずお酒は人生に潤いを与えてくれます。
強引に例えるならPanierは
人生に潤いを与える情報をつめこんだカゴ。
「なるほど~」「へぇ~」「面白~い」などなど、
お読みいただいた人の人生に
ちょっとした潤いを与えられるようにという願いを込めました。

そんなPanierを運営する私froisのこれまでを振り返りながら、
自己紹介をさせていただきます。

対馬で生まれながら大学では西洋史を専攻

私が生まれたのは1964年7月。高度経済成長期に開催された東京オリンピックの3か月前です。
高校まで対馬で生活し、大学入学を機に上京。
東洋大学文学部史学科で西洋史を専攻しました。
「魏志倭人伝」にも登場し、防人、刀伊の入寇、元寇、朝鮮出兵、朝鮮通信使、日本海海戦と、
日本史上何度も重要なできごとの舞台となった対馬で育ちながら西洋史専攻……。

当時、大学には朝鮮通信使の研究において第一人者であった田中建男先生がおられ、
「なんで君は西洋史なんだ…」と怒りにも近い疑問を投げかけられたことがありました。
理由は「シュリーマンが好きだから」。
近年は実績に疑問符がついてしまっているハインリッヒ・シュリーマンが大好きだったからです。
新潮文庫の『古代への情熱』というシュリーマンの自伝を何度も読み返したりしていました。
ですが、卒業時の卒論のテーマはフランス絶対王政。
大学には考古学を研究するサークルもありましたが、それに入ることもなく……。
もう何がしたいのか……。志も何もかもブレブレです。
情報化が進んだ現代なら東京と対馬の差はあまりないのかもしれませんが、
40年も前の昭和の頃は違っていました。
対馬しか知らない田舎者に自由を与えてしまったら、
阪神の岡田前監督ではありませんが「そらそうよ」です。
ろくに大学へも行かず、板橋のパブでのバイトと、
バイト先で知り合った仲間たちとのディスコ通いに明け暮れた大学生活でした。
一番よく行ったディスコは新宿のゼノンです。コマ劇場の裏の9階だったか10階だったか……。
キーホルダーが会員証になっていて、
午後5時だったか6時だったかまでにキーホルダーを提示すると、1000円で入れるんです。飲み放題で食べ放題に踊り放題。40年も前のことなんでいろいろと記憶もあいまいですが、キーホルダーは取ってありました。

ゼノンの会員証代わりのキーホルダー。


ゼノンの会員証代わりのキーホルダー

ゼノンの向かいのビルにあったニューヨークニューヨークやB&Bにも行きました。
半年に1度くらいは麻布十番にあったマハラジャや赤坂にあったMUGENにも足を運んでいました。
ブレイクダンスが大はやりの頃でした。
能天気でしたが、楽しかったーという大学生活です。
そんな大学生活もいつかは終わりが来ます。
4年生になっても一般教養の単位が残っているという状態でしたが、
情けないことに後輩の力を借りて卒業のための試験を何とかクリアし、
大きな壁だった卒論をやり過ごすために選んだテーマは、
フランス絶対王政における経済政策でした。
2年生のとき、西洋史の必修の授業で発表をしなければならないときに
フランス絶対王政の王権神授説をテーマにしたことがあったんですが、
卒論を前にして神保町の古本屋で見つけたのが、
フランス絶対王政下でデフレ政策を行ったジョン・ローという人の「ジョン・ローのシステム」を研究した本でした。
この本との出会いによって、卒論も無事クリアすることができたわけです。
運ですね。ただし、卒業式後の謝恩会で教授に言われたように、
卒業は超低空飛行でギリギリ中のギリギリでした。

大学卒業後もバイト生活

超低空飛行で大学は卒業しましたが、
「就職は?」と思われた方が多いかもしれません。
しなかったんです。
バイト先のパブのお客さんで会社をやられている方がいて、「うちで働けばいいじゃないか?」と、
熱心に誘ってもらったりしましたが、
結局、卒業してからはバイト先を西新宿の喫茶店に変えて、
フルでバイト生活です。
今でこそ大学を卒業してもすぐに就職せず「やりたいことが見つかるまでは……」みたいに、
フリーター生活を送る人が少なくないかもしれませんが、
当時はほとんどいませんでした。フリーターという言葉もなかったと思います。
就職浪人なんていわれていましたが、まさにそれでした。
一応、就職活動らしきものは少しやりました。
受かるはずがない講談社や日刊スポーツの入社試験にもチャレンジしましたが、
本気度は限りなくゼロに近かったと遠い記憶の中にあります。
西新宿の喫茶店はティーサロン「そよかぜ」というお店で、
ビルの地下にあり、同じフロアにあるステーキハウス「そよかぜ」の姉妹店でした。
西新宿という場所柄、ランチタイムは戦場のような忙しさでした。
お客さんが注文するのはステーキランチほぼ一択で、
2時間近くひたすらフライパンでステーキを焼きます。
厨房はものすごい暑さでした。
すごいダイエット効果がありました。
人生で最も痩せていたのはこのときです。
4月から始めたバイト生活が3か月目を迎えた頃には、
業者への注文も任されるようになり、
「きゅうり注文するの忘れた!」という夢を見て飛び起きたことがあって、
「このままでは辞められなくなる…」と思い始めました。
当時付き合っていた彼女は幼稚園の先生をしていましたが、
そんな彼女にとって、大学を卒業してもバイトに明け暮れている男は、
ずいぶんと頼りなかったのだと思います。
夏の終わりに合い鍵を返されて去っていきました。
彼女に振られて目が覚めたわけではありませんが、
直後にバイトを辞めて就職活動を始めました。

社会科教材製作に携わる中で生まれた2つの思い

すぐには決まりませんでしたが、
10月から教材を製作する編集プロダクションに入社することができました。
担当は社会科です。ようやくまともかどうかは別として一応社会人となりました。
もともと社会科だけは得意教科であり、好きだったので、
忙しい日々でしたが仕事は楽しく、充実していました。
社会科の仕事をしていく中で、
歴史の知識が増えていくと、
大学時代に国史を専攻し、
対馬の歴史を研究対象にしなかった自分の浅はかさを後悔するようになりました。
それともう一つ、スポーツライターへの憧れも再燃してきました。
もともと子どもの頃からテレビでスポーツ中継を観ることが大好きでした。
特に好きだったのは野球、サッカー、アイスホッケー、ボクシング、陸上競技。
板橋区に住んでいたこともあり、
上京してからは西が丘競技場へサッカーの日本リーグの試合を観に行っていました。
スタンドはガラガラで、前売りチケットは全く必要ありませんでした。
バイトをしていたパブは板橋本町にあり、
当時は現役バリバリで日本代表にも選ばれていた松木安太郎さんが、
試合を終えた後に店を訪れることがありました。
今では熱いサッカー解説でおなじみの松木さんですが、
現役当時からサッカーへかける情熱はものすごく、
カウンター越しに会話する私にもサッカーへの熱い思いを語ってくれました。
当時創刊して数年が経っていた『number』を愛読していたこともあり、
アスリートが競技にかける思いやスポーツが与える感動を読者に伝える仕事がしたいと、
松木さんとの出会いは私にスポーツライターへの夢を抱くきっかけを与えることになりました。
教材製作の編集ブロダクションに入社する前に
『サッカーダイジェスト』を出している出版社の入社試験を受けましたが不合格となり、
スポーツライターへの夢は封印したつもりでした。
ですが社会科の仕事が面白くなる一方で、
テレビのスポーツ中継などを観るたびに
「夢を追うなら動き出さなければ…」という焦りにも近い感情が沸いてくるようになったのです。
大好きだったシュリーマンが夢を追い続けて、
本当に存在するとほとんどの人が思っていなかったトロイの遺跡を発掘したように。
会社では高校入試の模擬試験を何本も作るようになって、
各県の都道府県入試に精通するようになっていました。
そして、時代が昭和から平成へと変わって間もなく、会社を辞めてフリーランスになり、
自分がやりたいことを目指そうという決心をしました。

フリーランスとして経験を重ねてたどり着いた場所

会社を辞めてしばらくは、社会科教材の仕事をいろんな会社からもらって生計を立てていました。
フリーランスとして活動していく中でしだいに人脈が出来ていき、
学研が出していたサッカー雑誌『ストライカー』のジュニア版『少年ストライカー』の仕事に携わることができました。
少年サッカーチームを取材して記事を書いたり、
開幕して間もないJリーグの選手に少年時代のことを取材して記事を書いたりしました。
最初に取材したマリノスの井原選手へのインタビューを録音したマイクロカセットは
今もとってあります。
少年サッカーチームの取材は毎号2チームずつ、
強豪チームと何かしらの特色があるチームをカメラマンと2人で取材に行き、
カメラマンから上がってきたポジを見ながら誌面のラフをきり、
デザイン出しをして記事を書くという流れです。
仕事ではありましたが、とても楽しい時間でした。
『少年ストライカー』はJリーグ人気の衰退とともになくなってしまいましたが、
この経験が後に私に別のチャンスを与えてくれることになります。
会社を辞めた当初は、「いずれどこかのスポーツ系の出版社に入って…」と考えていましたが、
月刊のパズル雑誌の編集やパートワークの編集、
時には全く門外漢の住宅雑誌や健康食品の紹介記事など、
その都度勉強しながらライター、編集者として経験を重ねていくうちに、
会社に就職するという選択肢は薄くなってしまいました。
実際に何年も会社勤めをしていないと、
たまに魅力的な求人を見つけて応募しても書類の段階ではじかれてしまいます。
まともな会社員生活を送ることはできなくなっていたのです。
ベースとして社会科教材の執筆や編集という仕事は常にもらえていたので、
30歳を越えたあたりからは再就職するという道は諦めていました。
そして結婚して神奈川県の大船に住んでいたとき、
高校生スポーツという高校生向けのスポーツ新聞の特派員記者募集の求人広告を見つけました。
「これだ!」と思った私はその日のうちに思いをつづった手紙を同封して履歴書を送り、
数日後、社長直々に電話をいただき採用されました。
子ども向けとはいえ『少年ストライカー』での経験が評価されました。
ラジオ短波(現在のラジオNIKKEI)が出していた競馬雑誌『馬劇場』でG1レース観戦記を記名で書いたり、
住宅雑誌で建築家を取材したり、
健康食品の紹介で大学の先生を取材したりといった経験も役に立ちました。

高校生スポーツが見せてくれた景色

高校生スポーツは、
スクールパートナーズという会社が発行している高校生新聞のスポーツ版として、
新たに発行されるスポーツ新聞で、特派員記者は記事の企画を編集部に提出し、
OKが出た企画について取材のアポイント、取材、執筆という流れで仕事をしていきます。
取材時にはカメラを持っていき、写真撮影も行います。
カメラマン兼記者でした。
もう時代はデジタル一眼レフの時代になっていたため、
写真撮影も問題ありませんでした。
高校生スポーツの仕事の前にもベネッセの社会科の副教材の仕事で、
成田空港などの取材や撮影を行ったこともありました。
アナログの一眼レフでポジの写真を撮ったこともありましたが、
デジタルは枚数を気にすることなくバンバン撮影することができ、
何といっても撮影後に補正することができるのが本当にありがたいことです。
アナログの時代に住宅雑誌の取材にカメラマンと一緒に行ったりしていましたが、
外観の写真などはポジで写真を撮る前に露出計で明るさを計り、
ポラロイドを撮って確認します。
デジタルになった現在では撮影した後にいくらでも補正できるのですから、
どれほど楽になったかです。
さて、高校生スポーツは、まずプレ創刊号の制作から始まり、
夏のインターハイをメインにした創刊号からは毎月発行されました。
プレ創刊号では後に陸上競技の日本選手権女子800mで優勝する久保瑠璃子さんや
母校の対馬高校野球部を取材しました。
そして創刊号では一面を飾ったインターハイ陸上競技女子100mの記事を執筆。
高橋萌木子さんが史上初の3連覇を達成したという記事です。
近畿地方の各所で行われたこのインターハイでは一週間、
大阪でウィークリーマンションを借り、
陸上競技や相撲を取材しました。
また事前に高橋さんの直前練習を取材し、
高橋さんの最大のライバルであった福島千里さんの直前練習も帯広まで取材に行きました。
10分ほど二人で話をさせてもらいましたが、あのときは福島さんが数年後に日本記録を更新し、オリンピックや世界陸上に複数回出場するほど成長するとは、
全く想像がつきませんでした。
福島さんとの会話で印象的なのは、
当時、高橋さんに勝てずにいつも2位か3位だった福島さんに、
「マリン・オッティみたいだね」と、
ジャマイカのブロンズコレクターといわれたマリン・オッティ選手の名前を出して例えたところ、
「マリモ? ですか?」と返ってきたことです。
このときのインターハイでも高橋さんに勝てずに福島さんは2位でしたが、
高校卒業後、北海道ハイテクACで中村先生の指導を受けるようになって大きく記録を伸ばしました。
福島さんと高橋さん、それにこのインターハイで女子200mのジュニア記録を出した中村宝子さんの三人が、高いレベルのライバル関係であると共にとても仲がいい友人であることは有名な話です。
中村宝子さんも高校卒業前に浜松へ行って取材し、記事を書かせてもらいました。
高橋さんや福島さん、中村さん、後に世界チャンピオンになったボクシング選手など、
高校生スポーツの仕事では、さまざまな一流アスリートを取材させてもらい、
それまで知らなかった新たな景色を見せてもらいました。このインターハイの取材のことを誰かに話すとき、必ずするのが女子4×100mリレー準決勝の高橋萌木子さんのゴール前のものすごい豪脚です。埼玉栄高校のリレーメンバーとして、「絶対に決勝に行く!」という彼女の強い思いが現れたシーンです。後に取材した際に中村宝子さんが言っていたように、もしかしたら10秒台で100mを走っていたのかもしれません。中村さんは同じレースに出ていて、高橋さんの豪脚を目の当たりにした一人です。
創刊号から数年間は携わらせてもらいましたが、
高校生スポーツが単独の新聞として発行されなくなり、
親しくしていた編集部の人たちが会社を辞めたころから、
カメラマン兼記者としては、体力的にきつくなったこともあり、
高校生スポーツの仕事からは、次第に遠ざかっていきました。

新たな挑戦と挫折

東日本大震災の翌年、神奈川の大船から東京都府中市へ引っ越しました。
大船の住んでいたところは静かで仕事がしやすい住宅地でしたが、
次第に静かではなくなってきたため、
山梨出身のカミさんが実家へ帰りやすくなるということもあって、
東府中の賃貸の一軒家を借りることにしました。
東京競馬場まで歩いて5分ほどの場所です。
東府中に来て数年後、
電子書籍と動画による自分史の制作をメイン事業とした会社を興しました。
ところが、これが大コケ。
自分でチラシをデザインし、業者にチラシの製作とポスティングを依頼したのですが、
ポスティングすると業者から告げられた日はあいにくの大雪。
サイトへのアクセスがポスティング前と後で変わらず、
ポスティングした成城学園の戸数より多くの枚数をポスティングしたという報告を見て、
「これはポスティングしてない!」と、業者に猛抗議しましたが、
数日経って、捏造したとしか思えないポスティング時のGPSデータを見せられて、
もうどうしようもなくなりました。
弁護士に相談することも考えましたが、費用を考えれば虚しいだけ。
実際どうだったのかはわかりませんが、
後に業者に依頼した枚数の10分の1程度のチラシを自分でポスティングした際には
サイトのアクセス数が上がったので、ポスティングしていないのは間違いないと思います。
あんな大雪の日にポスティングなんて、
下請けの業者なのか、実際に請け負ったアルバイトなのかはわかりませんが、
やらないでしょう。やったことにできるならやったことにするでしょう。
しかし、それを証明することはできません。
競馬に例えるならゲートが開いたとたんに落馬したような自分史事業は、
その後も全くダメで、個人でやっていた仕事を会社で受けるようになっただけでした。
そんな中で挑戦したのが自分で書いた小説の出版です。
高校生スポーツのプレ創刊号で母校の対馬高校野球部を取材した際、
韓国の高校野球の強豪校が対馬で合宿をしていること、
韓国の高校から練習試合を申し込まれても高野連の許可が必要なためできないこと、
対馬高校野球部は県の大会に出場するときに中3日開いたら一旦対馬に帰ることなど、
「そうなんだ…」と思う情報を聞いていました。
また、当時、村田兆司さんが「まさかりドリームス」を結成し、
離島の子どもたちに野球を教えているという報道を目にしていました。
対馬高校野球部を取材した直後から、
面白いエンタメ小説が書けるかもしれないと思っていました。
そして長い年月をかけてプロットを作り、作り直し、書いて、推敲し、加筆しをくり返して
エンターテイメント小説『国境リーグ』を完成させました。
書籍コードを取得して、Amazonで電子書籍と自分で組版した紙の本を販売しました。
読んでもらった人からは好評で、
仕事のクライアントでもある新学社さんは、
ポピーの会員向けに発行している情報誌でわざわざ対馬を紹介する記事の企画を作って、
その企画の中で『国境リーグ』を紹介する記事を掲載してくれました。
対馬を紹介する記事も込みで仕事としてそのページを作らせてもらいました。
本当にありがたいことです。


「国境リーグ」を紹介してもらった「ぽぴとぴあ」の記事

対馬へ

最初に「長崎県対馬市在住」と書きました。
対馬市在住になったのは2022年9月から。
両親が80代後半となり、父親と母親だけではどうにも生活が困難になってきたためです。
もう選択肢は対馬へ帰るしかありませんでした。
申し訳ないと思いながらもカミさんとは別居するしかありませんでした。
高齢の両親がいる一人っ子。
ゴッドタンのマジ歌選手権で森三中の黒沢さんがやっていたあれです。
学生時代からのバイト生活で料理は自信があるので問題ありません。
ただ、両親ともに難聴で、補聴器や集音器は使っていますが、
会話は大声が必須だし、何といっても感覚のズレってやつです。
とにかく毎日がストレスフル。
こっちへ来て3か月で胃をやられました。
薬で何とか治療しましたが、ストレスフルな日々は変わりません。
対馬という特殊な環境もストレスです。
「あ~吉野家の牛丼喰いてぇ~!」とか「三田製麺所のつけ麵が喰いてぇ~!」と思っても食べられないんです。
東京に住んでいれば住んでいる街になくてもお店がある場所へ行けば食べられます。
対馬ではそうはいかない。牛丼食べるために飛行機代往復1万4000円はかけられません。
ずっと対馬だったら感じないであろうストレスもあるのです。
都会を知ってしまったからですね。
対馬へ移住して、1年半ほどが経過した2024年4月、
親戚と花見に行った直後、親父がコロナに感染しました。
世の中は、もうコロナでは入院できない状況になっていました。
自宅で療養させるしかありません。
同じ寝室で寝ていた親父とお袋を引き離して生活していましたが、
親父を看病していた自分も感染し、
一週間ほどして親父も自分も回復してきた一方で、
お袋が脳梗塞を疑うような症状を発症してしまいました。
何をしゃべっているのか、全くわからない状態です。
ただ何かをうなるようにしゃべっているという……。
電話で病院に症状を伝えた上で、緊急外来へ連れて行きました。
いろいろと検査をし、脳梗塞ではなかったものの即入院となり、
先生に「心臓はいつ止まってもおかしくない状態」と言われました。
もともと異常なほど神経質だったお袋は、
数年前に膵炎を発症して以来、食事を取ること自体を怖がってしまい、
みるみる体重が落ちて、入院する時点で20㎏台後半でした。
そして2ヶ月後、お袋は亡くなりました。
亡くなってからの3日間は、ほとんど記憶が無いほど大変でした。
告別式に来てくれていた近所の床屋のおっちゃんに、
告別式の翌日に「お袋が亡くなりました」と報告に行って、
「昨日、行ったよ。話したよ」って言われたほどです。
それほど混乱していたということです。
お袋が亡くなってからは親父との2人暮らしです。
石工職人として仕事をすることが生きがいで、
唯一の趣味が釣りだった親父は、
所有していた船を他人にゆずり、
経営していた石材店をやめてからは脱け殻のようでした。
お袋が亡くなる前は、
一日中、下を向いてうなだれているという感じです。
それが、お袋が亡くなってから変わりました。
以前やっていた端切れの布を使った草履作りを始めたのです。
自らを奮い立たせるかのようです。
作った草履はデイサービスで配ったりしていますが、
なかなか好評です。
キーホルダーのように鞄などにつけるミニ草履は
メルカリで販売していますので、
気になった方はのぞいてみてください。

久々の取材で壱岐へ

対馬に帰って来てからは、
社会科の仕事を中心に、脳活本や一般書の執筆・編集をやってきました。
そんな中、去年の秋、
対馬の隣の壱岐の壱岐高校野球部が秋の県大会で準優勝し、
九州大会へ進んだというニュースが飛び込んできました。
九州大会でも初戦に勝ち、
次の試合に勝てば春のセンバツ大会の出場校に選ばれるというところまできたのです。
沖縄のエナジックスポーツとのその試合は
ネット配信で観戦しました。
結果はコールド負けでした。
しかし、そのときに確信がありました。
「絶対に壱岐は21世紀枠でセンバツに出場できる」と。
年が明けてすぐ、
10数年ぶりに高校生新聞の編集部に連絡を取り、
「壱岐が21世紀枠でセンバツに選ばれたら記事を書かせて欲しい」とお願いしました。
そして予想通り、壱岐はセンバツ大会21世紀枠に選ばれました。
が、高校生新聞編集部からは連絡なし。
センバツ大会1回戦で東洋大姫路と対戦した壱岐は、
序盤にリードを奪うも逆転負けでした。
センバツ大会から2週間ほどしてからでした。高校生新聞編集部から連絡があり、
取材して記事を書いて欲しいと。
正直、「何で終わってからなの?」とは思いましたが、
依頼を受け、4月30日にジェットフォイルで壱岐へ渡り、
10数年ぶりに高校の野球部を取材しました。
写真を撮って、監督や選手たちに話を聞きました。
学校の取材は基本的に放課後なので、
暗くなる前に写真を撮らなければなりません。
集合写真を撮る頃は日が沈みかけていて、
少し焦りましたが、約2時間、とても楽しい時間でした。
スポーツをやってる高校生は、
すごいエネルギーを与えてくれます。
壱岐高校野球部を取材した記事はこちらです。
「離島から甲子園を目指そう」センバツ初出場を果たした壱岐高校野球部の挑戦|高校生新聞オンライン|高校生活と進路選択を応援するお役立ちメディア
壱岐高校は残念ながら県予選で敗れてしまい夏の甲子園出場は
かないませんでしたが、選手たちには次のステージでの活躍を期待しています。
実は、これまで生きてきて、隣の島でありながら壱岐へ上陸したことはありませんでした。
フェリーやジョットフォイルで寄港するだけでした。
壱岐高校の取材では、自費で宿をとり、レンタカーを借りて、
取材の翌日は初めての壱岐を堪能しました。対馬は南北に長く山がちな地形で、
島の南部から北部まで車で2時間くらいかかります。
ですが、壱岐は平坦でちょうどいいこじんまり感。1時間もあれば一周できる大きさです。
原の辻遺跡や博物館、イルカと触れ合えるイルカパークなど、
観光資源も豊富です。
またいつか壱岐をゆっくり観光したいと思っています。

世界陸上で3年ぶりに東京へ

2025年9月、東京で世界陸上が開催されました。
日本では過去2回、世界陸上が開催されています。
1991年の東京と2007年の大阪です。
私は、その2回とも現地で100m決勝を観戦しました。
そして今回の東京大会も販売開始の日にチケットをゲットし、
14日の男女100m決勝や15日のデュプランティスの世界新記録を国立競技場で観ました。


15日の席はインタビューゾーンのすぐ上

チケットを取ったからといって確実に観戦できるとは限りませんでした。
今は対馬で90歳近い親父との2人暮らし。
東京へ行くために親父には10日間ショートステイに入ってもらわなければなりませんでしたが、
そのためには介護認定が要介護1は必要でした。
4月に介護認定の更新があり、5月に決定がおりて要介護1という結果となりました。
その結果を受けて、ようやくショートステイの予約ができるようになり、
世界陸上の観戦と昨年末に亡くなった義父のお墓参りに行くことができるようになったのです。
3年ぶりの東京で世界陸上を観戦し、友人たちと会い、
カミさんと旅行にも行って、大いにガス抜きが出来ました。

最後に…

壱岐高校野球部の記事で編集部の人が、
「離島ならでは苦労を部員から聞いてください」と言われました。
わかってないなーと思います。
離島での苦労は、
離島以外の経験をしないとわからないんです。
島以外の生活をしたことがない壱岐高校の野球部員にとっては
フェリーに乗って試合に行ったり、
練習試合をする相手がいなかったりすることは、
当たり前で不便ではないんです。
対馬での暮らしも同じで、
ずっと対馬で暮らしている人にとっては、
テレビやネットで入ってくる情報によって、
便利な暮らしは知っていても、
それがないことは不便ではないんです。
ですが、前にも書いたように、
東京、神奈川で40年暮らしてきた自分にとって、
対馬暮らしはストレスフルで本当に不便です。
無性にデニーズやジョナサンに行きたくなることがあります。
ランチを食べて、ドリンクバーでお代わりをしながらゆっくりしたいと思っても出来ないんです。
もう気分は島流し……。
ですが、良いこともあります。
『国境リーグ』を作るとき、掲載する写真は観光物産協会にお願いして借りましたが、
対馬にいれば自分で撮りに行けるんです。
社会科教材の製作に携わる中で、
大学で対馬を研究対象にしなかった自分を後悔しましたが、
対馬にいる今なら自分の足で調べたり、
聞いたりすることができます。
近年、ゲームソフト『ゴースト・オブ・ツシマ』や、
アニメの『アンゴルモア元寇合戦記』、アニメ版『GAMERA』に対馬が登場し、
対馬への注目度が高まっています。
ごく稀に韓国人以外の外国人観光客の姿も見られます。
『ゴースト・オブ・ツシマ』で対馬を知り、
聖地巡礼に来たのだと思われます。
伯父さんから『新対馬島誌』という本を譲ってもらいました。
1964年に教育委員会が出した本で、非売品です。
検索してみたら古本屋のサイトで10万円を越えるものもありました。
安くても3万円代です。
そして、『新対馬島誌』の執筆者を見ると、
自分が通っていた厳原小学校で校長先生だった人や、
小学1年生のときに絵を習っていた画家の先生がいました。
せっかく伯父さんから譲り受け、
執筆者の先生と関わりがあったこの『新対馬島誌』をブログで活用しない手はありません。
このブログは、子どもの頃からスポーツ観戦を趣味とし、
対馬で暮らしながらライターや編集の仕事をしている私が
さまざまな記事を書いていきます。
対馬や高校野球、その他のスポーツなどについてカテゴリーを分けて記事を入れていきます。
現在はAmazonでの販売も止めている『国境リーグ』もブログで公開しています。
カテゴリーをPanierと位置づけ、
いろいろなPanierを設けていきます。
このブログの記事が読んでくれた人の人生に少しでも潤いを与えていければ幸いです。

長々とお読みいただきありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました