51
「さて、本題に入ろうか。グニョンが一番聞きたいことと、俺が一番聞きたいことは別だと思うが、確実に関係があると思う。何から聞いた方がいいかな?」
松尾のこの言葉に橋本が答えた。
「すべてはチェ社長の水死事件から始まります」
「やはりそうか。話してくれ」
「救世主となって国境リーグの理事になった辻村社長は、チェ社長とパク市長を排除しなければならなかったんです」
「そりゃそうだろうな。もともとは、土地強奪計画の言い出しっぺなんだからな。ふたりに秘密を暴露されたらすべてがおしまいになる」
「はい。チェ社長とパク市長が、緊急理事会の場で辻村社長との関係を暴露することはないことも計算通りです。チェ社長にとっては、それまでの辻村社長との関係が知られてしまうことで失うものが大きいことは分かっていましたから。しかし、辻村社長は、緊急理事会での自らの行動について、チェ社長に説明する必要がありました。ですから、緊急理事会の直後に、『この方法で土地を手に入れても日本で大きな問題になって、ホテルを建てることなどできない。自分が国境リーグの中に入って、リーグを成功させ、いずれ浅茅湾に球場を移し、カジノを含むリゾートと融合させて、清水が丘に建てる球場はチェさんに破格の安値で売却する』と、辻村社長はチェ社長を丸め込んだんです」
「へぇー、そんなでまかせを信じるのかね~」
「確かにでまかせなんですが、チェ社長は信じたんです。そのポイントになったのは、出資者への説明会で見せたあの映像です。球場の部分を入れる前のあの映像を見せて、『必ず浅茅湾でIRをやることになる。国や県の政治家にも接触して、確実に実現することができる。すでにこの映像の土地の一部を山猫ネットが入手しているが、実際にIRが動きだした際には、慶尚グループと山猫ネットの共同経営でやっていき、日本の世論を味方につけることができれば、清水が丘の土地の売却も可能になるはずだ』。そう言ってチェ社長を丸め込みました。さらに、『将来の共同経営の証として、すでに山猫ネットが入手している浅茅湾の土地を一旦、慶尚グループに売却しておきたい』と言って、厳原の親和銀行でお金を引き出させたんです」
「その金額が船で見つかったコカインの末端価格と同額だったわけだ」
「その通りです」
「やっぱりチェ社長は単なる水死ではないってことだな……」
「はい。キム・ソンギさんが水死させました」
「やっぱりそうなのね。私、前日にチェ社長とあのおじいちゃんが一緒にいるところを見たんだもん」
グニョンが見たのはやはりキム・ソンギだった。
「ソンギさんは、朝鮮戦争で北の魚雷に攻撃されて沈没しかかった味方の揚陸艦から18人を救い出したという逸話があるほど泳ぎが達者です。辻村社長の代理として、ソンギさんは、山猫ネットから慶尚グループに売却されることになっている浅茅湾の土地をクルーザーの上からチェ社長に見せた後、上手くクルーザーを外海に誘導して、チェ社長を海に突き落とし、クルーザーの梯子を船上に上げて、チェ社長が上がれないようにしました。チェ社長は、泳ぎは得意ではありませんでしたから、水死しました。ソンギさんは、前日の夜、チェ社長のクルーザーにコカインとシュノーケルを隠しておき、チェ社長が水死したのを確認すると、コカインを船内の目立つ場所に移し、チェ社長が前日銀行で下ろしたお金を回収して体にくくりつけ、シュノーケルだけで阿連地区の陸まで泳いで戻りました。幸い誰にも見られませんでした」
「すごいな。あのじいちゃんは。そこまでするのか……。抗議行動で一芝居うつのと人殺しは全く違うと思うがな……」
「そうよね……」
松尾とグニョンの疑問はもっともである。
「そうなんですが、ソンギさんは実の父親でありながら、辻村さんに多大な恩義を感じているんです」
「恩義?」
首を捻りながら松尾が聞いた。
「辻村さんの母親が亡くなったのは、山猫ネットを起業して間もなくの2005年でしたが、対馬ではなくプサンにお墓を建てて欲しいという遺言がありました。父親は反対しましたが、辻村さんは母親の遺言を尊重して、プサンの親戚を探し出して、遺骨を持って行き、お墓を建てました。そのときに辻村さんは、生まれて間もなく別れた実の父親であるキム・ソンギさんにも会ったんです」
「2005年ということは、辻村は俺の2つ下だから45歳のときってことだな」
松尾が辻村の当時の年齢を計算した。
「そうですね。45歳のときです。僕はまだ山猫ネットに入っていなかったので、辻村さんから聞いた話なんですが、キム・ソンギさんは辻村さんの母親と離婚した2年後に再婚し、子どもがひとりいました。男の子です。キム・チョルス(金哲秀)というその男性は、辻村さんからすれば弟です。そのチョルスさんは、2005年に辻村さんとキム・ソンギさんが会ったとき、重い肝硬変を患っていて、治療には肝臓移植が必要な状態だったんですが、そのことを聞いた辻村さんは、弟を救うために自ら生体肝移植を申し出て、自らの肝臓の一部をチョルスさんに提供したんです。そして、弟さんは回復し、今は山猫ネットの韓国法人で役員を務めています。チョルスさんが辻村さんの弟であることを知っている人は、韓国法人にはいませんが……」
「なるほどねー。それなら確かに、ソンギさんは辻村に恩義を感じるな……」
松尾は納得した様子だ。
「その後も、辻村さんはソンギさんに、毎月、お金を振り込んだり、山猫ネットで扱う商品を送ったりして、ずいぶんと親孝行をしてきました。さっき辻村社長が刺されたときの錯乱ぶりからもソンギさんにとって社長がどれだけ大切な存在であったか窺えると思います」
「そうだなぁ……」
松尾は自分に置き換えてみた。「圭一郎がもし刺されたら、自分はどうなるだろう?」と。もしかしたら自分も同じように錯乱するかもしれない。そして、圭一郎から「お父さん、あの人を殺してください」と、誰かの殺人を頼まれたとしたら……。自分はやらないと言い切る自信が松尾には持てなかった。
松尾が何か考えている様子を見た橋本は、少し間を置いて口を開いた。
「チェ社長水死事件と辻村社長の結びつきをかぎつけたのが週刊『SHINSO』の高杉という記者です」
少し本題からずれた話を橋本が軌道修正した。
「やっぱりな。殺された記者が最初に見つけたネタは辻村に関することだって編集長が言ってたらしいからな」
「そうなんです。高杉という記者は完全につかんではいなかったんですが、あのままでは社長が韓国出身であること、僕の父の保険金殺人のこと、チェ社長の水死事件についても、真相にたどり着いてしまうのは目に見えていました。プサンに確かめに行くと言っていたそうですから。それで、辻村社長は、韓国出身であることは認め、保険金殺人とチェ社長の水死事件との関わりを強く否定した上で、あらかじめつかんでおいた対馬市のごみ焼却場建設業者落札に関する阿比留市長の疑惑と、松尾さんの息子さんのことをリークしたんです。時間をかせぐためと、どちらかにいずれ高杉さん殺害の犯人になってもらうためです」
「辻村だったのか……。圭一郎のことを記者に教えたのは……」
松尾は言葉を失った。墓場まで持っていこうと決めていた圭一郎のことは、記者が独自に調べたものだとばかり思っていたが、辻村があらかじめ調べていたという。
「そうなんです。辻村社長は、いずれ自分が国境リーグの理事長になり、阿比留市長を下ろして、僕を対馬市長に据えようと考えていました。そうすれば浅茅湾でのIR事業をスムーズに進められますから。そのために、おふたりを失脚させるネタをずっと探していたんです」
「つくづく恐ろしい奴だな……。辻村って奴は……」
「本当に怖い人だったのね。辻村さんは……」
松尾もグニョンも、改めて辻村の恐ろしさを感じていた。だが、辻村の本当の恐ろしさはさらに上をいっていた。
「高杉という記者をどうやって殺害し、誰を犯人にするのか、社長と僕は時間をかけて計画を立てました。結果、松尾さんを犯人にするのは無理があり、また、圭一郎さんの存在も怖いので、阿比留市長を犯人にすることにしました。阿比留市長を犯人に仕立て上げることは、市長の血を凶器である包丁に残すことで可能だと判断しました」
「逮捕も裁判も、それが決め手になっているからな……」
「市長の血は、健康診断で僕の彼女が通常より少しだけ多く採血し、それを僕が病院で受け取って、辻村社長に渡しました。それが凶器に付着していた血です」
「健康診断か……。橋本くんに看護師の彼女がいたことに気付くべきだった……」
「ところが、その計画のことを博多港で彼女と話していたとき、うっかりウソンくんに聞かれてしまったんです」
「やっぱりウソンは殺されたのね!」
グニョンは我慢できなかった。立ち上がって橋本の左頬を引っぱたいてしまった。
「グニョン、まぁ待て。橋本くんの話を聞こうじゃないか」
「わかった……」
松尾に言われ、グニョンは椅子に座り直した。
「僕は、はっきり聞かれたのかどうかわからなかったんです。それにウソンくんが、どの程度日本語を理解しているのかもわからなかったので、ウソンくんを殺す必要があったのかどうか、疑問です。でも、辻村社長は、別のことを考えていました」
「別のこと?」
松尾が怪訝そうに橋本を見る。
「辻村社長は、国境リーグの話題作りを考えたんです。ウソンくんが三島翼くんへの臓器提供を望むという意思表示をしていることを知っていましたから、ウソンくんを脳死状態にして、その心臓を……」
「もう止めて! 聞きたくない! わかったから……」
両手で頭を抱えて左右に振りながらグニョンが言った。聞いていられなかった。ウソンは話題作りのために殺されたのだ。
「あの事故のときに目撃者がいたよな? 確か若いカップルの観光客だったと思うが……。それはどうしたんだ?」
松尾が冷静に聞いた。
「あのふたりは韓国法人の山猫ネットで支払いが滞っている若者です。カップルではありません。素性を調べて、絶対に裏切られないよう縛りつけて嘘の証言をさせたんです。支払いを免除して報酬も渡しました。事前にツーショット写真をふたりのSNSにあげておいたので、警察は見事に騙されましたね」
「でもよくウソンくんを立亀岩に連れて行くことができたもんだなぁ?」
「前日、上原くんを食事に誘うと、上原くんは間違いなくグニョンさんとウソンくんを連れてくると確信があったんです。実際、そうなりました。事故当日の午前中は、上原くんとグニョンさんは都合が悪く、ウソンくんだけが一緒に立亀岩へ行くことができることも調べてありました。そして、ウソンくんの性格上、辻村社長が困った顔をすると、必ず一緒に行ってくれると考えました」
「そこまでしてたとは……」
松尾はあきれ顔である。
「あの夜に戻りたい……。ウソンに行くなって言ってあげてたら……」
グニョンの目から涙がこぼれ落ちた。
「そんな辻村を……、海人は心から信頼していたのに……」
今、海を見ながら泣きじゃくっているであろう海人は、1ミリも辻村を疑ったことはない。辻村に疑念を抱くグニョンと大喧嘩するほど辻村を信頼していた。海人が真実を知ったらどうなってしまうのか、それが松尾の一番の気がかりである。
「さて、今度は俺が一番聞きたいことを聞かせてもらおう」
「市長のことですね」
「そうだ」
「あの事件の前日、市長を辻村社長の自宅に僕が誘導しました。『ウソンくんの事故で社長が落ち込んでいるから』と言って」
「自分で殺しておいて……」
グニョンが吐き捨てるように呟く。
「何でそんなことをする必要があったんだ?」
松尾が訊ねる。
「市長の指に怪我をさせるためです」
「指に怪我……」
「はい。市長の鞄は持ち手の部分が柔らかい素材で作られているのでガラスの破片がくっつくんです。だから、あらかじめ確実に指を怪我するほど鋭利なガラス片を用意しておいて、市長の鞄の近くで僕がワイングラスをわざと割り、いかにもそのとき飛んだ破片が鞄にくっついてしまったように見せかけました。でも実際は、市長がトイレに行っている間に用意しておいたガラス片を鞄の持ち手に食い込ませたんです。そして、帰り際に市長が鞄を手に持ったとき、こちらの思惑通り、指に怪我をしたんです」
「その怪我のあとが、被害者を刺したときにできたもののように見せかけたわけだ……」
「そうです。実際、凶器に血痕が付着していても刺した方が怪我をしていなかったら、血は出ませんから」
「防犯カメラに阿比留が映っていたのも計算してたのか?」
「そうです。防犯カメラの位置は把握していました。プレゼンが早く終わることは分かっていたんですが、わざと午後6時すぎの便を予約しておいて、空港のレストランで食事をして帰るよう誘導したんです。僕が、わざと忘れてきた携帯を取りに行ったあと空港に戻り、スタジアム前で市長がひとりになっているタイミングで市長に電話して『今、レストランにいます』と言うと、必ず市長は走って空港に戻りますから。市長はそういう人です。その姿は、いかにも人を殺して走って逃げているように映ります。すべて計算通りでした」
「恐ろしいほど用意周到だな……」
「辻村社長は、そこまでする人です」
「それで、実際に被害者を刺したのは誰なんだ? 辻村や君じゃないことは分かってるんだが……」
「ソンギさんです」
「そうか……。そういうことだったのか……」
「さっきも言いましたが、辻村社長は韓国出身であることは認めていましたから、高杉氏に『本当の父親に会わせる』と言ってレベルファイブスタジアム近くの東平尾公園に呼び出しました。そこで待っていたのは慶尚ホテルに送り込んでいた辻村社長のスパイをしている人間です。そして、『ソンギさんは車で待っている』と言って、高杉氏を近くに停めたワゴン車に誘導し、車内に隠れていたソンギさんが背後から刺したんです。歳はとっていても元軍人ですから、急所を確実に刺して殺害しました。殺害後はふたりで、遺体を阿比留市長が防犯カメラに映った道の延長線上にある雑木林まで誰にも気付かれないように運びました。Jリーグの試合が始まって、周辺に人が少なくなってから、用意しておいた大きなダンボールに入れ、業者を装って台車で運んだんです。そして、僕から辻村社長を経て、ソンギさんに渡った市長の血液を凶器に付着させました。殺害に使ったワゴン車はすぐ廃車にし、ダンボールは焼却、台車も密かに海に廃棄して、何ひとつ物的証拠は残さないようにしました」
「ふぅー……」
松尾は大きく息を吐いた。
「それが真相だったのか……」
「デシクさんが言ってたように、辻村さんは本当に悪魔みたいな人ね……」
松尾もグニョンも全身から力が抜けていくようだった。
「松尾さんは、どうして僕と辻村社長の関係をお知りになったんですか?」
橋本の質問に松尾は、皮肉を込めて答えた。
「君と辻村が俺を陥れるために嗅ぎつけた圭一郎に調べてもらったんだよ」
「やはりそうでしたか……。辻村社長は裏社会にも精通していますから、圭一郎さんは一番の懸念材料でした。そしてまさかチェ社長の息子に殺されるとは……」
「橋本くん、これから俺と一緒に警察へ行って、今、話してくれたことをもう一度話してくれるね」
「はい。わかりました」
「グニョンはどうする?」
「海人と一緒にタクシーで帰ります」
「そうか。わかった」
スマホを取り出し、海人に電話をかけようとしているグニョンと別れた松尾と橋本は、病院を出て松尾の車へ向かった。
松尾と橋本が対馬南署へ着いたとき、明らかに署内は騒然としていた。中から「救急車を呼べー!」というどなり声が聞こえてくる。松尾が署の前に立っている若い警官に近づいて聞いた。
「何かあったんですか?」
「何でもないです。下がってください!」
明らかに嘘をついているが、一般人に署内の様子を明かすことはできないのであろう。
「困ったなぁ……。しばらくここで待ってようか」
松尾がそう言うと、橋本は「はい」と頷いた。
5分ほど経った後、警察署の前に救急車がやって来て、救急隊員が署内にストレッチャーを運び入れた。3分後、署内から出てきたストレッチャーに乗っていたのは酸素マスクをつけたキム・ソンギであった。応急処置を施されたと思われる頸動脈の付近には出血のあとが見える。
松尾と橋本は、救急車が去った後、混乱が鎮まった署内に入り、刑事課を訪ねた。そして、対応した刑事に橋本が、対馬病院で松尾とグニョンに語ったことをすべて話し、松尾が度々補足説明を行った。すべての話が終わった後、橋本は、橋本自身が犯した証拠捏造についてさらに詳しく事情を聞かれることになったため警察署に残ったが、松尾は自宅へ帰った。
翌朝、上空を飛び交うヘリコプターの音で目を覚ました松尾は、すぐにテレビをつけた。思った通り、ほとんどのチャンネルで「山猫ネット社長辻村氏刺殺される!」というニュースを伝えていた。しばらくテレビを見ていると、携帯が鳴った。登録していない番号だった。
「もしもし?」
「福岡県警捜査一課の上林です」
「ああ、刑事さんでしたか」
「松尾さん、先程、対馬南署から連絡がありました。松尾さんは昨日、すべてお聞きになったそうですが、これで阿比留さんの無実が証明されますね」
「はい。辻村が殺され、私が辻村と彼の父親のことを知っていると迫ったことで、橋本くんはすべてを話してくれる気持ちになったようです」
「そうですか」
「はい。それで阿比留はいつごろ出られますか?」
「いろいろ確認しなければならないこともありますから、今すぐにとはいきませんが、そう遠くないうちに釈放されると思います」
「それは良かった。でも、昨日、対馬南署に行ったときに週刊誌の記者を殺した真犯人のキム・ソンギという老人が救急車で運ばれて行ったんですが、そのことについて、上林さんは何か聞いていますか?」
「はい。聞きました。亡くなったそうです」
「亡くなったんですか……」
「取り調べ中に辻村さんが亡くなったことを担当刑事が伝えると、暴れ出して、ペンを奪って自分の首に突き刺したそうです」
「そうだったんですか……。辻村もその実の父親のキム・ソンギも亡くなってしまったら、解明できないことが残るんじゃないですか?」
「うーん。残らないようにすることが我々の仕事なんですが……」
「お願いしますよ。上林さん」
「はい。努力します。松尾さんには捜査にご協力いただき、感謝しております。一言お礼を言いたくて電話しました。それでは失礼します」
電話を切った松尾は、またしばらくテレビを見た。どの番組も辻村の死亡について大きく伝えているだけである。キム・ソンギの自殺や、辻村とキム・ソンギの関係については、未だつかんでいないのであろう。これから警察発表を経て、阿比留の無実も報道されていくのだろう。そう思う松尾であったが、残念なのは、昨日、海人が歴史的な快投をして、華々しく開幕した国境リーグのニュースが、辻村刺殺事件によって、飛んでしまったことである。松尾は、国境リーグの先行きに再び不安を抱かざるをえなかった。
辻村が刺殺されてから1週間後、山猫ネットの韓国法人が新興のIT企業によって買収された。40歳のシン・モングン(申夢君)という男性がCEOを務めるこの企業は、前年の夏、チェ社長の死後、経営危機に陥った慶尚グループの株を大量に取得し、実質的経営権を握った企業である。
大看板であった辻村を突然失った山猫ネットは、大混乱に陥った。事件の翌日、副社長だった人物が新社長に就任したが、売り上げ減少による株価暴落の責任を取り、3か月で辞任。新しく社長に就任したのは、韓国法人の役員であったキム・チョルスである。キム・ソンギの息子であり、辻村の異母弟であるキム・チョルスが、山猫ネット韓国法人を買収したシン・モングン氏によって、経営再建のために送り込まれたのである。キム・チョルスは、それまでは秘密であった、辻村が韓国出身であり、自分はその異母弟であることを公言し、辻村と同じように通販番組に出演して商品を説明した。初めは、カタコトの日本語に消費者の反応は悪かったが、次第に受け入れられるようになり、アイドル宮村つばめが、SNSでしきりに山猫ネットの商品を宣伝した効果もあり、山猫ネットの業績は回復した。
52
-国境リーグ開幕からおよそ11か月後、2019(平成31)年2月-
対馬やまねこ空港2階の保安検査場入口前。
「ウエハラ、ベストを尽くせ。お前は俺たち国境リーグプレーヤーの希望だ」
そう言うと、チョ・ドンウォンは右手で海人の肩をポンと叩いた。
「ありがとうございます。ドンウォンさんが俺に教えてくれたフォークでメジャーリーガーから三振の山を築いてきます。見ていてください」
「おお。楽しみにしてるぞ」
そう言うと、ドンウォンは階段を下りて行った。
国境リーグ開幕戦で20奪三振ノーヒットノーランを達成した海人は、開幕戦後のパーティーで起こった辻村刺殺事件などにより1か月の中断を経て再開した国境リーグで18勝0敗、防御率0・87という驚異的な数字を残した。そして、シーズン終了後、メジャーリーグのニューヨーク・メッツから入団テストのオファーを受け、見事合格。マイナー契約ではあったが、新シーズンは海を渡ってアメリカでプレーすることになった。今日は旅立ちの日である。
「海人、たくさんの人が見送りに来てくれたわね」
もちろんグニョンも海人と一緒にニューヨークへ渡る。
「そうだな。みんなの期待に応えなきゃいけないな」
「海人さん、僕もがんばります!」
三島翼である。翼は前年、対馬高校へ転校し、母親である元女優の三島美紀とともに暮らしている。対馬高校入学後は、強肩強打のキャッチャーとして野球部で活躍するようになっていた。ウソンのプレーを知る者は全員、「ウソンがプレーしている」と、錯覚してしまうほど、翼のプレーはウソンにそっくりであった。しかし、20歳を迎える今年は高校野球の出場資格を失ってしまう。そのため今年は、高校生でありながら国境リーグ厳原フィッシャーズの選手としてプレーすることが決まっていた。
「翼もがんばれよ。いつか俺のボール受けてくれよな。プロの世界で」
「はい。僕もいつかNPBでプロになります。ウソンさんが僕に力を与えてくれているんです。本当に自分でも不思議なんですけど」
「いやいや、お前の実力だよ」
そう言うと、海人は翼の頭をポンと軽く叩いた。
「ナイスピッチング期待してるよ」
「そうだ。メジャーリーガーにもお前のボールは必ず通用するぞ。自信を持て!」
前理事長の三島豊と前年をもってDeNA横浜ベイスターズを退団した中村元雄である。三島は野球解説等の仕事があるため、生活の拠点は東京に置きながら、妻子が暮らす対馬を頻繁に訪れている。横浜DeNAベイスターズを退団した中村は、今年から国境リーグの厳原フィッシャーズの監督に就任した。
「三島さん、中村さん、見ていてください。海の向こうでもバッタバッタと三振を獲ってみせますから」
海人はふたりとがっちり握手を交わした。
「上原くん、さっきポセイドンのチョ選手も言っていたが、君は我々国境リーグの希望なんだ。だからといって重い荷物を背負い込む必要はない。君自身のために精一杯プレーしてくれ」
前市長阿比留啓である。1年前、辻村が刺殺された事件で犯人を蹴って逮捕されたキム・ソンギが、週刊「SHINSO」記者であった高杉伸二と慶尚グループのチェ・デヒョンの殺害を自供した後で自殺。対馬南署に松尾とともに出頭した橋本の供述により、無罪が証明された阿比留は釈放され、対馬に戻った。戻った後は、一時的に市長の職務に復帰したが、辻村が殺害され、開幕戦後の試合が行われずにいた国境リーグを建て直すべく、プサン側と協議した結果、阿比留は市長を辞職し、三島に代わって国境リーグの理事長に就任したのである。
「理事長、国境リーグをお願いします」
「ああ、君がいなくなったら人気が落ちたと言われないよう、がんばっていくよ。そうですよね。トシ兄」
「もちろんだ。俺も陰から啓を支えていくから。安心しろ、海人!」
松尾はタクシーの運転手をしながら国境リーグの運営に無償で協力している。
「監督、お願いします。いつかアメリカに俺の試合、見に来てくださいね」
「ああ。いつか行くよ。グニョンがいなくなって、幸子が一番寂しがってるからな。いつか一緒にニューヨークへ行くよ。待っててくれ」
「本当に来てね。楽しみに待ってるから。おばさんに伝えてください」
別れの時間が近づいて、グニョンの目には涙があふれている。阿比留、松尾と握手を交わした海人が、目に涙を溜めているグニョンを見て言う。
「そろそろ行こうか」
「わかった……」
「それじゃみなさん、行ってきます」
そう言うと海人は、両手両足を揃えて深々と頭を下げた。そして優しくグニョンの肩を抱くと、保安検査場のゲートへグニョンを誘導し、続いて自分もゲートを潜って搭乗待合室へ入って行った。
搭乗ゲートへチケットを入れ、出てきたチケットを受け取って、飛行機へ向かう途中、海人の頭の中に、甲高く懐かしい声が響いた。
「海人―、がんばれよー」
終章
海人が旅立った1か月後、松尾は熊本へ出向いた。もちろん、圭一郎に会うためである。妻の幸子も今では圭一郎の存在を受け入れている。さすがに一緒に行くとは言わないが、松尾が会いに行くことには何も言わない。むしろ「からし<蓮根<<れんこん>>買ってきてね」と、土産を楽しみにしているようだ。
午後7時、熊本へ着き、新幹線を降りた松尾は、コートの襟を立てた。3月半ばにしてはかなり寒い。マフラーを持って来なかったことを後悔する寒さである。持ってきたお土産と旅行カバンを一緒に持つ右手は仕方ないが、左手はコートのポケットに突っ込んだ。ホームからエスカレーターを降りて新幹線改札口へ行くと、松尾は圭一郎を見つけた。
「おお、圭一郎。また来たぞ。今日は寒いなぁ」
松尾が熊本へ来るのは、この1年で3回目。来るたびに圭一郎は、ホテルの部屋を用意してくれ、松尾が口にしたことがないような高級そうな食事をごちそうしてくれる。会計のとき、お金を払おうとする松尾だが、「親孝行させてください」という圭一郎の言葉についつい甘えてしまう松尾であった。
「お父さん、また来てくれて嬉しいです。本当に今日は寒いですね。もう3月ですが、1月半ばくらいの気温だそうですよ」
「一番寒い時期の気温ってことか……」
「そうですね。昨日が少し暖かいくらいだったので、余計に寒く感じます」
「そうか。昨日は対馬も暖かかったぞ。だからマフラーは持って来なかったが、失敗だったな。そうそうこれいつものお土産だ」
そう言うと、松尾は右手に持っていた紙袋を圭一郎に渡した。紙袋の中身は「かすまき」である。どら焼のような生地でこし餡を巻いている対馬名物の和菓子で、対馬の人はみんな知っている。以前、熊本へ来たときに土産として持ってきたが、圭一郎がとても喜んでくれたため、松尾は、毎回、「かすまき」を土産にしようと決めていた。
「ありがとうございます。僕も好きですが、うちの若い者に甘党がいて、そいつが大好きなんですよ。餡子の甘さがちょうどいいですよね。絶妙な加減です」
「そうか。そうか。いっぱい買ってきたから甘党の若い子に食べさせてやってくれ」
「はい。そうします。お父さん、今日は駅の近くの日本料理の店を予約しておきました。ホテルは駅の近くに予約してありますが、チェックインは後にして、先にお店に向かいましょう」
そう言うと圭一郎は、松尾が持っている旅行カバンをさりげなく受けとり歩きだした。
「お父さん、ニュースで見ましたよ。上原くん、メッツに行くんですね」
「ああ、今のあいつの力ならメジャーでも通用すると思うぞ」
「お父さんの教え子がメジャーリーガーですか……。すごいですね」
「ああ、本当にそうだ。日本のプロ野球でくすぶってたあいつがここまで変わってくれるんだからな」
「でも、看板選手の上原くんがメジャーに行ってしまったら、国境リーグは大丈夫なんですか?」
「正直、どうなるかわからんよ。去年は、国境リーグのおかげで対馬にも観光客が増えたんだが、その人気がいつまで続くか、海人が人気を支えてた部分があったのは確かだから、先のことは誰にもわからんよ」
熊本駅を出て1分も歩かないうちに、とあるビルの前で圭一郎が足を止め、そのビルを指さした。
「お父さん、ここのビルの地下の店です」
「そうか。わかった」
歩道に面した入口を少し入ったところからエスカレーターで地下へ降りると、店の入り口があった。いかにも高級な日本料理の店という印象を受ける。店内に入ると、着物を来た女将が迎えてくれた。30代半ばくらいの上品な印象を与える美人である。
「緒方様、いつもありがとうございます。いつものお部屋をご用意させていただきました。先程、お連れの方がおふたり来られています」
「そうですか」
「お連れの方?」
松尾は、圭一郎の顔を見た。
「今日は、お父さんに会わせたい人を呼んでいるんです」
「俺に会わせたい人?」
松尾は頭を傾けて考える。「圭一郎の母親の両親はすでに亡くなっているし……」と頭の中で思いを巡らせていると、圭一郎が意外なことを言った。
「おひとりはお父さんが知っている人です」
「俺の知っている人……」
そう呟いた松尾を見て、圭一郎はニャッと笑った。すると、店の入口で立ち止まって会話をしていたふたりを、女将が店の奥へ誘導する。
「こちらです」
松尾は首を捻りながら女将に着いていく。廊下の先の中庭にある池にかかった橋を渡った反対側に個室の入口が3つあった。その一番右の部屋に松尾と圭一郎は案内された。格子戸を開けて中へ入ると、玄関があり、装飾が施された襖が見える。女将に促された松尾が靴を脱いで部屋へ入ると、畳12畳の座敷に4つの高級そうなテーブルが置いてあり、それぞれに座り心地のよさそうな椅子が備えられている。向こう側の席には先に来ていたふたりが座っていた。松尾は、そのひとりを見た瞬間、その名前を口にした。
「橋本くん!」
橋本は、辻村刺殺事件の後、松尾と一緒に対馬南書に出向き、高杉伸二殺害事件の証拠隠滅罪で逮捕された。自ら出頭したため自首扱いとなったが、起訴され、裁判で懲役3年、執行猶予4年の判決を受けていた。保釈された直後は、実家がある久留米市で生活していたが、山猫ネットの社長となった辻村の弟であるキム・チョルスに声をかけられ、現在は同じく執行猶予付きの判決を受けた元看護師の彼女と福岡で暮らしているという。松尾は、阿比留からそのことを聞いていた。山猫ネットに戻る前、橋本は阿比留に謝罪するため、対馬を訪れていたのである。しかし、その橋本がなぜここにいるのか……? 松尾は混乱していた。
「ご無沙汰しております。松尾さん。その節はお世話になりました」
「ご無沙汰はこちらも同じだが、橋本くん、なぜ君がここにいるんだ?」
松尾の問いかけには圭一郎が答えた。
「お父さん、そのことについては、僕から説明します。橋本さんは今、福岡の山猫ネットに戻って仕事をしていますが、これからは、プサンに生活の拠点を移し、こちらの方の下で仕事をすることになりました。お父さん、こちらの方はご存じないですよね?」
「ああ……」
「シン・モングンさんです」
「シン・モングンさん……。ああ~、確か……、チェ社長の会社を再建したIT企業の社長さんだったな……」
「ハジメマシテ。松尾さん」
「はじめまして」
求められた握手に応じながら、松尾は思った。「確か40歳だと報道されていたと思うが、ずいぶん若く見えるなぁ」と。身長は180㎝以上あると思われるが、スラッとした体型に加え、毛先を遊ばせたロン毛、はっきりとした目鼻立ちに黒縁のメガネをかけているシン・モングンは30歳くらいに見える。
「お父さん、まずは座りましょう」
圭一郎に促されて椅子に腰掛けた松尾に、圭一郎がシン・モングンとの関係を話し始める。
「前、お父さんにお話ししたと思うんですが、うちの親父の古い知り合いが韓国にいると」
「ああ。俺が辻村と橋本くんの関係の調査を圭一郎に頼んだときだな」
「はい。その古い知り合いというのが、シンさんの父親なんです」
「それじゃ、あのときはいろいろと世話になったんだな。橋本くんがいる前で言うのは気まずいが……」
松尾は橋本の顔を見たが、橋本の表情に変化はなかった。
「そうなんです。シンさんにはお世話になりました」
「それはありがとうございました」
「全然大したことではありません。むしろ自分のためだったんですから」
「自分のため?」
松尾は圭一郎の顔を見た。シンが発した言葉の意味を問いかけるように。
「お父さん、シンさんの言う通りなんです。実は、慶尚グループが経営危機になったとき、乗っ取りを狙っていたのは、シンさんの会社だけではなかったんです。辻村さんの山猫ネットも慶尚グループを傘下に入れようと画策していました。それは橋本さんが一番よく知っています」
「そうか……。以前、聞いた圭一郎の話からすれば合点がいくよな」
「しかし、辻村さんは手を引きました。それはなぜかというと、一旦は手を引いたと見せかけて、後々、シンさんの会社ごと慶尚グループを飲み込もうと考えたからです。その方が大きな利益を生みますから」
「なるほど……。辻村らしいな……」
「シンさんは、なぜ辻村さんが慶尚グループの乗っ取りから手を引いたのか疑問に思っていました。そのころです。お父さんが僕に辻村さんと橋本さんの関係を調べて欲しいと依頼してきたのは。その依頼を受けて、僕はシンさんにも協力してもらいながら辻村さんについていろいろ調べました。その過程で辻村さんの狙いがわかったんです」
「そうだったのか……。それでも結果的に今、山猫ネットはシンさんが実質的な経営者になっているわけだから、辻村の狙いが、そっくりそのままシンさんの方に来たことになるよな」
松尾は、この後、圭一郎の口から出た言葉を聞いて、絶句した。
「そうです。すべては僕の狙い通りです。シンさんの山猫ネットは国境リーグを守っていきます。シンさんを介して、お父さんが一番大切にしている国境リーグを僕が支えていくことができるようになったんです。いずれは辻村さんが描いていたようなIRを対馬でやることも視野に入れているんですよ。そのために、すでにわかっていた辻村さんとチェ社長の関係を、国境リーグ開幕戦のパーティーのときまでお父さんには伝えませんでした。なぜなら、気性が激しいチェ・デシクさんに『あなたの父親は辻村社長に殺されたんだ』と教えて、あのパーティー会場で彼に辻村さんを殺させたのは僕なんですから」
─完─
※本作品はフィクションであり、実在する人物、団体、施設等とは関係ありません。

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