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説明会が行われて以降、国境リーグから撤退する企業はなくなった。事務局へは、「国境リーグが将来のIRへとつながるのか?」という問い合わせさえ来るようになっていた。松尾が辞任し、阿比留が逮捕されて以来、国境リーグをひとりでまとめていた橋本は、その問い合わせに対し、「可能性はゼロではないが、現段階では何もお答えすることはない」と含みをもたせつつ、明確な回答は避けていた。
理事長代行である三島の代行とでもいう立場ですべてを仕切っている橋本は、国境リーグ事務局へ出勤し、グニョンらの事務員たちにさまざまな指示を出し、国境リーグ開幕へ向けた準備を進めていた。肩書は市長秘書でしかない国境リーグ部外者の橋本が国境リーグの運営へ関わることに異を唱える市議会議員が声を上げたが、辻村が緊急理事会を招集させ、橋本を正式に国境リーグ運営会社である「ワイルドキャッツ」の社員として認めさせた。7月に新しくプサン市長となったキムから、「辻村氏が正式に理事長としてリーグを運営して欲しい」という要請があったが、「そんなこと無理!」と辻村は断り、三島が正式に理事長として、リーグの顔役を務めることになった。阿比留が逮捕されたことで、阿比留を理事長に推していた辻村も渋々ではあったが納得した。
10月に起訴された阿比留は、その後何度も保釈請求を行ったが、認められることはなかった。初公判が開かれたのは12月8日、偶然にも阿比留の誕生日であった。
裁判員裁判として福岡地方裁判所で行われる阿比留の裁判を傍聴するため、松尾は福岡へ渡った。午前10時前、松尾は法廷に入り、傍聴席の最前列に座った。午前10時ちょうどに入廷した阿比留は、傍聴席の松尾に気づくと、軽く会釈をして被告人席へ座った。やがて裁判長や裁判官、裁判員らが入廷すると法廷内の全員が起立し、裁判長らが自らの席の前に立つと、裁判長の合図で全員が一礼して着席した。裁判が始まると、被告人である阿比留を証言台の前に立たせ、人定質問が行われた。被告人の名前や生年月日、職業、本籍などを述べさせ、本人であることを確認する作業である。その後、検察官による起訴状が朗読され、裁判長が被告人には黙秘権があることを説明。そして罪状認否である。被告人である阿比留が起訴状に対し、罪状を認めるか否か発言する。阿比留は、強い口調で「私は高杉伸二氏を殺害していません!」と罪状を否認した。以後、冒頭陳述や被告人質問などがお昼休みや休憩を挟みながら行われ、午後4時すぎに閉廷。初公判は終了した。退廷する阿比留と目を合わせた松尾は、阿比留を勇気づけようと右手で握り拳をつくって小刻みに振り、大きく頷いてみせた。阿比留も大きく頷いた。
だが、初公判を傍聴した松尾の感想は、「これはヤバい」であった。阿比留が殺人を犯していないことは疑いようがない。だが、阿比留の血痕が凶器である包丁に付着していたという客観的事実に対する反論が、阿比留の弁護を担当する国選弁護人はできていなかったからである。阿比留を全く知らない第三者がこの事実を聞くと、犯行を行う際に指を切り、血痕が凶器に付着してしまったと思うだろう。6人の裁判員も今日の段階ではそう思ったに違いない。
法廷から出て、松尾が電源をオフにしていた携帯をオンにすると、すぐに着信音が鳴った。登録していない番号からである。だが、この番号は最近知ったもので、松尾は覚えていた。機械類にうとい松尾は、携帯の電話帳への番号登録は妻の幸子に頼んでいる。しかし、この番号の登録だけは頼めなかった。だから覚えたのだ。圭一郎の番号だからだ。
「はい。松尾です」
「お父さん、圭一郎です」
やはり圭一郎からだった。
「ああ、圭一郎、何かわかったのか?」
10月、辻村たちによる出資者への説明会が行われた後、松尾が地下鉄を博多駅で降りて向かったのは熊本の圭一郎のところだった。松尾は藁にもすがる思いで、辻村と橋本の関係、特に辻村が他人に全く話さない東京時代のことを調べて欲しいと圭一郎に頼んでいたのである。
「はい。2か月近くかかりましたが、いろいろと分かりました」
「そうか。ありがとう」
「遅くなってすみません。お父さん、お会いしていろいろと説明したいんですが、こちらへ来られませんか?」
「そうか。今日は阿比留の初公判だったから、今、福岡にいるんだ。今からでもよければそっちへ行くが……」
「そうですか。それでは熊本駅まで迎えに行きます。何時の新幹線に乗るか決まったら知らせてください」
「ああ、わかった。博多駅で電話するよ」
そう言うと、松尾はタクシーを拾って博多駅へ向かった。圭一郎が裏社会の情報網を使って調べてくれた辻村と橋本の秘密とは一体何なのか? 「啓、俺が必ず助けてやるからな……」。松尾は、タクシーの後部座席で、高鳴る胸の鼓動を抑えきれずにいた。
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九州新幹線「みずほ」には、博多‐熊本間を30数分で結ぶものもある。松尾は博多駅で軽く食事をした後、圭一郎に19時22分博多発の「みずほ」に乗ることを伝えた。次の停車駅は熊本である。
熊本駅に着いた松尾は、博多駅で圭一郎に指示された駅前にあるホテルへ向かった。ホテルのロビーに着くと、圭一郎が待っていた。
「お父さん、わざわざ熊本までありがとうございます」
「何を言ってるんだ。俺が頼みごとをしたんじゃないか。こちらこそ手間をとらせてしまってすまない」
「お役に立てるなら嬉しいです。部屋を取ってあるんで、部屋で話しましょう」
「そうか、わかった」
松尾と圭一郎はホテルの一室に入った。圭一郎がルームサービスでコーヒーをふたり分注文した後、テーブルを挟んでふたりとも椅子に腰かけた。そして圭一郎が静かに話し始める。
「まず、辻村さんについてお話しします」
「わかった。頼む」
「辻村さんは、現在の国籍は日本ですが、韓国で生まれています」
「えっ、本当か?」
圭一郎を疑っているわけではないが、松尾は思わず疑いの言葉を口にしてしまった。
「本当です。プサンで生まれています。うちの者を現地までやって入念に調べさせました」
「そこまでしてくれたのか……」
「向こうにオヤジの古い知り合いがいまして、昔、オヤジに助けられたというその人がいろいろと手助けしてくれました」
「俺は、宗司さんにも世話になったことになるな……」
「気にしないでください。オヤジは世話を焼くことが好きな人でしたから。辻村さんは、プサンで生まれ、キム・チョルジン(金哲鎮)と名付けられました。ところが1歳の誕生日を待たずに両親が離婚します。そのときから母親の姓であるイ・チョルジン(李哲鎮)と名前が変わるんですが、2歳のとき母親が、知り合いを頼って福岡の中洲で働くようになりました。韓国人パブです。母親に引き取られていた辻村さんも一緒に福岡で暮らすようになったんですが、母親は中洲で働くようになって2か月で店を辞めて対馬に行きました。お店の客だった辻村広志さんといい仲になり、結婚したからです。辻村広志さんは独身だったんですが、資産家でお金を持っていたので、よく中洲に遊びに来ていたようです。そこで知り合った韓国人女性を奥さんにしたということですね」
「なるほど……。それで辻村は日本国籍になったわけだ」
「はい。まだ2歳でした。言葉も自然に覚えるでしょうから、言葉の面でも完全な日本人ですね。母親の日本語がナチュラルだったので、対馬でも母親が韓国人だということはわからなかったようです」
「そうだな。それなら辻村がもともとは韓国人だったと知る人はいないな」
そのとき「ピンポーン」とチャイムが鳴り、圭一郎が出るとルームサービスのコーヒーが届けられた。松尾は砂糖とミルクを入れてかき混ぜる。圭一郎はそのままカップを口にもっていって一口飲むと、話を先に進めた。
「辻村久志という名前になった辻村さんは、田舎ではありますが、裕福な家庭で大事に育てられました。高校は対馬高校、大学は福岡の九州産業大学へ進みました」
「ああ、それは俺も知ってることだ」
「大学でも友人は多かったようですが、経営学部産業経営学科の1つ上の先輩である早乙女浩二という人物と特に親しくしていたようです」
「その早乙女という人物が大きく関係しているんだな……」
「はい。そうなんですが、順を追って説明していきますね」
「ああ、すまん。先走ってしまった」
「いえ……。その早乙女浩二さんには同学年の同じ学科に付き合っている女性がいたんですが、早乙女さんが大学3年、辻村さんが大学2年のとき、早乙女さんの彼女が妊娠してしまったんです。早乙女さんは学生結婚することを決めたんですが、早乙女さんは母子家庭で育ち、大学へも新聞奨学金制度を利用して通っていたくらいですから、全くお金がなかったんです。それで困った早乙女さんは、実家が裕福だった辻村さんに相談して100万円を借りて、出産費用や新居の準備に充てました」
「辻村のおかげで結婚できたってことだな……」
「はい。でも、おそらくその100万円が返済されることはなかったと思います。早乙女さんが大学を卒業すると、早乙女さんと辻村さんは次第に疎遠になっていったからです。大学を卒業した辻村さんが東京で就職したこともあり、ふたりが連絡を取り合うことはなくなったのだと思います。推測ですが……」
「そうか。100万は踏み倒されたってことだな……」
「早乙女さんはまた後で出てくるんですが、ここから辻村さんの東京時代のことを話します。お父さんが『誰も知らない』っておっしゃっていた部分です」
「そうか。頼む」
「はい。辻村さんは、大学卒業後、東京の「海堂商事」という商社に就職しました。推測でしかありませんが、父親のコネがあったんじゃないでしょうか。当時の九産大から入るのはなかなか難しいと思います」
「俺にはよくわからんが、そうなのかもしれんな」
「辻村さんは、会社へ入って3年後、海堂社長の娘さんと結婚しました。どうやって知り合ったのかまではわかりませんでしたが、辻村さんと海堂社長の娘さんは同い年で、娘さんも海堂商事で働いていましたから、社内恋愛ですね」
「逆玉ってやつだな……」
「そうですね。しかもひとり娘なので後継者になったと考えるのが普通だと思います」
「ひとり娘か……。それじゃ婿養子に入ったんだな」
「そうです。海堂姓になりました」
「そうか! 三島さんがパーティーで辻村に会ったのはこの頃なんだな……。姓が違うって言ってたもんな……」
松尾の独り言は、圭一郎に聞こえていた。
「その頃の辻村さんと会った方がいらっしゃるんですか?」
「ああ、元プロ野球選手だった三島豊さんが相撲部屋のパーティーで会ったと言ってたんだ。三島さんははっきり覚えてなかったんだが、名字が違う名刺をもらったと言ってた」
「そうですか。辻村さんは社長の娘さんと結婚してから、政治家のパーティーにも夫婦揃って出席していたようですから、相撲部屋のパーティーにも招待されていたのかもしれませんね。そのころには専務という肩書だったはずです」
「次期社長ってやつだな」
「はい。そうです。ところが、婿養子に入って海堂商事の次期社長という地位を築いたと思われたんですが、平成12年、2000年ですね。辻村さんは海堂商事を退社しています。その理由を探っていたんですが、はっきりとはわかりませんでした。推測の域を出ませんが、その当時、海堂商事は銅の不正取引で500億円を超える損失を出して、株主総会が紛糾したんです。おそらくはその責任を取らされたのだと思われます」
「責任ねー」
「はい。その部門の責任者でしたから。しかも……、これも推測ですが、おそらくは嵌められたのだと思います」
「あの辻村が!」
「そうです。その前年から海堂社長が体調を崩し、次期社長の人事が株主の間で話題に上がっていました。婿養子の辻村さん派と当時の副社長派に分かれて対立していたようです。当時の副社長は、銀行業界やこっちの世界……」
「いわゆる裏社会ってことか?」
「はい。そうです。当時の副社長はそういうところに太いパイプを持っていたので、巧妙に仕掛けられた罠に辻村さんは嵌まったんだと思います」
「そうだったのかぁ……」
「海堂商事を辞めた後の1年間については、辻村さんの足どりはつかめなかったんですが、2001年に辻村さんの奥さんが交通事故で亡くなっています」
「交通事故か……」
「はい。見通しの良い片側1車線の直線道路で対向車線からはみ出してきた乗用車と正面衝突した事故です」
「相手がはみ出してきたのか?」
「そうです」
「脇見運転だったのか?」
「ぶつかってきた相手も亡くなったんですが、飲酒運転だったようです」
「飲酒運転だったのか……。運が悪かったなぁ……」
「それが……、単に運が悪かったとは思えない事故だったんです」
「どういうことだ?」
「その事故を起こした相手ですが、誰だと思いますか? 僕はお父さんに説明するこの話の中でその人の名前を口にしています」
「何だって? まさか……」
「早乙女浩二さんです」
「そんな偶然があるのか……?」
「正直、わからないんですが……、これも推測でお話しします。当時の早乙女さんを調べました。すると、早乙女さんはガンを患っていて、余命いくばくもない状態だったようです。おそらくは……、早乙女さんは自分の余命を知って、辻村さんを探し出して会いに行ったんだと思います。借りていた100万円を返すために」
「なるほど……。ずっと引っかかっていたものを取り除いて、すっきりしたいと考えるかもしれないな」
「僕もそう思います。そして、ここからが重要なことなんですが、会いに来た早乙女さんの余命が少ないことを知った辻村さんは、ある提案をします。あくまで推測ですが……」
「まさか奥さんを殺せと!」
「わかりません。あくまで推測です。と、言うのも100万円を辻村さんに返しに来たと思われる早乙女さんには、もっと多額のお金が必要だったことが分かったからです」
「どういうことだ?」
「はい。早乙女さんは、学生結婚した奥さんとは5年後に離婚しています。以来、ずっと独身でしたが、学生結婚して生まれた息子さんがいます。息子さんは奥さんが引き取って奥さんの実家がある久留米市内で育てられたんですが、福岡市内で暮らす早乙女さんとも小学生くらいまでは頻繁に会っていたようです。奥さんの周辺を調べてわかりました」
「そうなのか……。よく調べてくれたな。ありがとう」
「いえ、僕のせいでお父さんの大事な仕事を奪ってしまったことを考えれば、これぐらいは何でもありません。それよりもここからが大事なところです。早乙女さんと離婚した奥さんの名字、何というと思いますか?」
「名字って……? まさか!」
松尾の中ですべてがつながった気がした。
「そうです。橋本です。橋本大輔。今、対馬で暮らしている橋本大輔さんは、辻村さんの奥さんを事故死させた早乙女浩二さんの息子さんなんです」
「これは驚いたなぁ……。橋本くんは辻村の会社の社員になる前に辻村と関わりがあったということか……」
「はい。あくまで推測ですが」
「偶然、山猫ネットに入社したということはないだろう。たぶん……」
「橋本大輔さんは、一橋大学で僕の1つ上の先輩です。会ったことがあるのかもしれませんが、学部も違うし、全く面識はありません。しかし、僕の大学時代の1つ上の先輩に『橋本大輔』という名前を出して、何か知らないかと聞いたところ、興味深いことが出てきました」
「何だ?」
「はい。橋本さんは大学2年の時、学生でありながら会社をつくっていました」
「会社を?」
「先輩も会社の名前までは覚えていなかったんですが、2001年当時、急速に普及し始めたインターネットを使って外為取引を行う会社です。FXっていうやつです」
「なるほどFXか……」
「当時はまだ業者に登録が義務化されていない、いわばFXの黎明期だったんですが、橋本さんは、お客さんとの間でトラブルを抱えていたそうなんです」
「トラブル?」
「はい。FXでは、時折、お客さんが注文したときの値段と実際に約定したときの値段に差が出るスリッページが発生してしまうんです。為替は変動するのである程度は仕方ないことなんですが、あるお客さんが、橋本さんが故意にスリッページを発生させたせいで大損をさせられたと言い出したそうなんです。実際、当時はそういう業者も多くいたみたいですから、本当のところはわかりませんが、『損失を補填しろ!』と、そのお客さんに橋本さんは迫られていたそうです。そのお客さんは、僕たちと同じ世界の人間だったのかもしれません。その額は1000万円近くだったそうです」
「1000万円か……。学生にはそう簡単に何とかなる額じゃないな……」
「そうなんです。僕の先輩の話によると、橋本さんは、お客さんとトラブルになって1か月ほど雲隠れしていたそうです。僕の先輩たちは、『自殺したんじゃないか?』とか、『東京湾に沈められたんじゃないか?』など、いろいろと噂していたらしいんですが、あるときひょっこり戻ってきて、『どうなった?』と訊ねると、『すべて解決した』って答えたそうなんです」
「解決したか……。えっ、まさか!」
「ええ、推測でしかありませんが、辻村さんからお金が出ているのだと思います。奥さんの事故死によって、辻村さんは1億円ほどの保険金を手にしています。早乙女さんは保険には入っていなかったので、橋本さんが保険金を直接手にすることはありませんでしたから、辻村さんは奥さんの事故死によっておりた保険金の一部を橋本さんに渡したんじゃないでしょうか。実際、辻村さんは、保険金を元手に実演販売の会社をつくり、それが今の山猫ネットに発展しています。橋本さんはトラブル解決の後、会社をたたみみ、大学を卒業して外資系の商社に就職し、後に山猫ネットに転職しています。辻村さんは、100万円を返しに来た早乙女さんに『飲酒運転の事故に見せかけて妻を殺してくれたら、あんたの息子に1000万円渡すから』とでも言ったんじゃないでしょうか」
「なるほど……。あれだけ口が上手い辻村のことだからな。おそらく圭一郎の言う通りだろう。それにしても良くそんな多額の保険金がおりたもんだな……」
「結婚直後から、夫婦ともに数社の保険に加入していたようです。企業の社長のひとり娘とその婿養子が、長年、お互いを受取人にして保険料を支払っていたため、不自然な死とは判断されなかったようです」
「そうか。辻村って男は頭が切れるだけじゃなく、強運の持ち主でもあり、とてつもなく恐ろしい人間だったってことだな……」
そう言うと、松尾は深く溜め息をついた。
「僕も通販番組で辻村さんをよく見てましたけど、調べてみて、こんな過去があったなんて、驚きました。こんな家業をやっている僕が言うのも何ですが……」
「そう言えば……、今、ふと思ったんだが、辻村の実家はどうなってるんだ?」
「ああ言い忘れていました。辻村さんに兄弟はいないんですが、父親、母親ともにすでに亡くなっています。父親の辻村広志さんが経営されていたスーパーは、生前に経営権を本土の企業に譲っています」
「上の方に行くといくつかあるあのスーパーは、もともと辻村の父親が経営していたのか……。なるほど……」
「辻村さんの母親は、辻村さんが山猫ネットを起業して間もないころ亡くなっています。父親の辻村広志さんが亡くなったのは、その3年後、2008年です。晩年は夫婦仲は良くなかったようです。母親は『プサンで死にたい』とごく親しい人に語っていたようです」
「そうなのか……。わかった。圭一郎、本当によく調べてくれた。助かったよ。ありがとう。いくら払えばいい? 頼むときにも言ったが、俺は今、無職だ。そんなには払えないんだが……」
「お父さん、あのときにも言いましたが、お金は1円もいりません」
「でもお前、調べるのにいろいろかかっただろう?」
「いいんです。僕のせいでお父さんは一番大事な仕事を失ったんです。お父さんが一番大切にしている野球を奪ってしまったんですから。これくらいの罪滅ぼしはさせてください。お願いです」
「罪滅ぼしだなんて……」
「それと……、僕が対馬へ行くと、お父さんに迷惑がかかってしまうと思うので、僕は行けませんが、また、熊本へ来てください」
「ああ、いつでも来るよ」
「嬉しいです。それと、言い忘れましたが、今日、お話しした辻村さんの過去、辻村さんと橋本さんの関係が明るみになったからと言って、それが、阿比留市長が無実であるという証拠にはなりません。ふたりが共謀して、阿比留市長を嵌めたということは、ほぼ間違いないと僕は思いますが、何も直接的な証拠はありません。だから、このことを辻村さんと橋本さんに直接ぶつけてもお父さんの身に危険が及ぶ可能性がありますから、警察をうまく使ってことを進めたほうがよいと思います」
「ああ、俺もそうしようと思ってるよ。福岡県警の刑事からもらった名刺があるからな。その刑事に話してみるよ」
「くれぐれも情報源は明かさないでくださいね。お父さんに迷惑がかかりますから」
「ああ、分かってるよ。とある筋とでも言ってごまかして警察に裏を取ってもらうようにするよ」
「そうしてください。それじゃお父さん、一杯やりにいきましょう」
そう言って圭一郎は椅子から立ち上がった。松尾も立ち上がり、ふたりはホテルの部屋を出ると、圭一郎行きつけの熊本駅近くにある居酒屋へ向かった。
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圭一郎と酒を酌み交わした翌朝、松尾は午前8時にはホテルの部屋を出て、福岡へ戻った。博多駅に着くとすぐに携帯と、財布にしまってあった1枚の名刺を取り出した。上林に電話をするためである。松尾が電話をかけると、上林はすぐに出た。
「はい。上林です」
「あー、もしもし私、対馬の立亀岩でお会いした松尾と申します」
「松尾さん……あーはいはい、立亀岩でお会いしましたね。何かお気づきのことがありましたか?」
「はい。いろいろわかったことがあります。これからお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「そうですか。わかりました。お待ちしています。県警本部刑事部捜査第一課を訪ねてください。県警本部は地下鉄箱崎線の馬出九大病院前からすぐです」
「わかりました。これから向かいます」
そう言って電話を切り、松尾は福岡県警本部に向かった。県警本部へ着いた松尾は、上林に言われた通り、刑事部捜査第一課を訪ねると、上林が待っていた。上林にソファとテーブルをパーテーションで仕切った簡易的な個室に案内され、松尾が腰掛けると、女性がお茶を持ってきた。上林も松尾の向かい側のソファに腰を下ろした。
「昨日は阿比留さんの初公判でしたが、傍聴されたんですか?」
「ええ、傍聴してきました」
「私は行けなかったんですが、どういう印象をお持ちになりましたか?」
「印象ですか……。厳しいのかなと……。そういう印象ですかね」
「そうですか。客観的事実を照らし合わせると、阿比留さんにとって厳しい判断材料が多いですからね……」
「でも、阿比留はやっていませんよ」
「はい。松尾さんがそうお考えのことは先日お会いしたときに伺いましたから。それで、今日はどういったご用件で?」
上林のこの言葉を待っていたかのように、松尾は、前日の夜、圭一郎から聞いたことをすべて話した。もちろん情報源が圭一郎であることは伏せて。
「そうですか……。これだけのことを松尾さんおひとりでお調べになったんですか?」
「いえいえ、私ひとりで調べることなどできません。ですが、情報源についてはお話しできません。今、お話ししたことには、客観的事実もありますが、多分に推測も多く含まれています。客観的事実も含めてすべてそちらで裏を取っていただけるとありがたいです」
「わかりました。こちらで裏を取っていきましょう。私の方でもいろいろと調べていることがあります」
「どんなことですか?」
「本来は、お話しすることはできないんですが、今、松尾さんからお聞きしたことと関係が深いんで、特別にお話しします」
「ありがとうございます。どんなことでしょう?」
「私は、何度か東京へ行って、週刊『SHINSO』の編集長である木村直樹さんに話を聞いたんですが、木村さんが言うには、殺害された高杉伸二さんは、最初、辻村さんのネタを取材すると言って福岡へ長期出張に行ったそうなんです」
「辻村ですか?」
「はい。週刊『SHINSO』の契約ライターだった高杉さんは、契約更新の時期が近づいていて、『契約を更新するには、大きいネタが必要だ』と、木村さんは高杉さんを追い込んでいたそうなんです。そういう切羽詰まった状態の高杉さんが木村さんのところへ持ってきたのが、先程、松尾さんがおっしゃった辻村さんの保険金のことだったようです」
「なるほど……」
「そのことは辻村にはお話しになったんですか?」
「保険金のことは話していません。こちらの手の内を見せることになりますし、高杉さんの殺害事件とは直接関係がありませんから。単に『被害者に会ったことはありますか?』とだけ聞きました」
「それには何と?」
「はい。『ある』と言っていました。ただ、『聞かれたのは国境リーグのことや阿比留市長のことをいろいろと』ということでしたが」
「橋本くんはどうなんですか?」
「橋本さんは、電話を取り次いだときに話しただけで、高杉さんには会っていないと答えました」
「そうですか……」
「いずれにしても……、松尾さんからお聞きしたことは私の方で裏を取ります。松尾さんはくれぐれもこのことを誰かに話したりしないでください」
「はい。わかっています」
「それと……、辻村さんと橋本さんが昔から関係があったとしても、それだけで高杉さん殺害事件と結びつくわけではありません。前もお話ししましたが、ふたりにはアリバイがあって、犯行に及ぶことは不可能ですから」
「別に実行犯がいるということですね」
「あるいは本当に阿比留さんが……」
「阿比留はやっていません!」
上林の言葉を遮るように言い切った松尾は、ソファから立ち上がった。
「それでは今日はこれで失礼します」
ソファに置いた鞄を手に取ると、松尾は軽く頭を下げて立ち去ろうとした。慌てて上林も立ち上がった。
「松尾さん、また何か見つけたり、思いついたりしたことがあったら連絡してください」
帰ろうとする松尾に声をかけた。
「わかりました。失礼します」
松尾はもう一度軽く頭を下げて、県警本部の玄関へ歩を進めた。
初公判が行われた翌週、福岡地方裁判所で開かれていた高杉伸二氏殺害事件の裁判は、被告人である阿比留に対して、無期懲役の判決が言い渡された。阿比留はすぐさま判決を不服として控訴。裁判は福岡高等裁判所で開かれる第2審へと舞台を移すことになった。

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