30
7月30日に開かれた緊急理事会には、7人の理事と対馬市長阿比留、プサン市長キムの代理人が集まった。理事会の冒頭で松尾が理事長辞任に至った経緯を説明し、松尾の理事長辞任が了承された。松尾の理事長辞任を受けて、議事の進行を受け継いだ副理事長である三島が、理事長の後任者選出について話し始めようとしたとき、辻村が甲高い声を発して手を挙げた。
「はい。議長! その前に提案があります」
その場にいた全員が辻村を見て、三島が辻村に問いかけた。
「辻村さん、何の提案ですか?」
「後任理事長は、三島さん、あなたに決まりだろう。規約に従えば、副理事長であるあなたかアン・ソンテのどちらかということになる。アン・ソンテが理事長になると、現状ではいろいろ面倒くさいことになるだろうから、三島さんにほぼ決定だと思うが、それでいいのかと俺はみなさんに問いたい」
これを聞いた阿比留は「辻村は自分を理事長に選出しろ」と言い出すのだと思った。松尾を失った今、国境リーグの営業的成功を考えれば、辻村を理事長にすることがベストなのかもしれないと阿比留は思っていた。だが、辻村が理事長になると、今度こそ自分との関係を週刊誌に書かれかねない。何より未だ辻村を心から信用していない自分がいた。辻村を理事長にすることは阻止しなければならない。
「お前は何が言いたいんだ!」
阿比留は辻村を睨みながら言った。すると辻村がすぐに反応した。
「三島さんは、国境リーグをだしに使った清水が丘の土地乗っ取り計画に加担してた人だぞ。話を持ちかけてきた人なんだから、むしろ実行犯だ。阿比留、お前はあのとき、三島さんを殴ろうとしてたじゃないか。本当にいいのか? 三島さんが理事長で」
阿比留も本音ではわだかまりがないわけではなかった。しかし、辻村と三島の2択であれば三島だ。辻村だけはダメだ。
「確かに入り口はそうだったが、あれは息子さんの命を救うために仕方なくやったことだ。今は本当に国境リーグを成功に導こうと動いてくれている」
辻村が納得するとは思わなかったが、阿比留は辻村を説得するように言った。そこへ松尾が助け船を出す。
「それに三島さんは、俺と違って日本の野球ファンなら知らない人はいないほど野球界のスターだ。そんな人が国境リーグの顔になって引っ張っていった方が注目度は高くなるんじゃないのか?」
「なるほどね。そういう考え方もあるかもしれない。だけど、理事長は実務じゃないの? そもそも三島さんは東京在住だろう。野球解説とか、ほかの仕事だってあるだろうし。国境リーグにすべての時間を使うことはできないだろう? そのへんはどうなの? 三島さん?」
辻村は三島の顔を見て言った。これに三島が答える。
「ほかの仕事もあるので、国境リーグに100%というわけにはいきません」
「でしょう。そうだよね。東京在住の三島さんに理事長は難しくないのか?」
辻村は両手を広げて、その場にいる全員に問いかけた。阿比留や松尾らは腕組みをして首を傾け、考え込む。しばらく沈黙が続いた後、辻村が再び話し始める。
「前理事長が辞任せざるを得ないならば、実務に長けた次期理事長にふさわしい人物はひとりしかいないだろう」
誇らしげに語る辻村を見て、阿比留は確信した。「実務に長けた俺を理事長にしろ」と、辻村は言い出すつもりだ。もったいぶっている辻村が言い出す前に、「お前はダメだ」と、否定しなければならない。
「お前は確かに実務に長けてるかもしれないが、お前だって、山猫ネット社長としての仕事があるし、対馬在住でもないじゃないか。三島さんと同じだ。三島さんこそ新しい理事長にふさわしい。前理事長も同じ考えだ」
阿比留の言葉を聞いた辻村は、怪訝そうな顔をしている。
「阿比留~、お前、勘違いしてるぞ~。俺がいつ『理事長になりたい』って言ったよ~」
「えっ? 違うのか?」
阿比留だけでなく、その場にいた辻村以外の全員が、辻村は「俺を理事長にしろ」と言い出すのだと思っていた。だが、辻村はそれを否定した。
「当たり前だろう。俺だって山猫ネットは大事だぞ~。国境リーグ理事長に転身なんてしたくないぞー。俺が言った次期理事長にふさわしいたったひとりの人物は、阿比留、お・ま・えだよ。お前以外、国境リーグを引っ張っていける実務に長けた人物はいないだろう。どうだ理事のみなさん?」
辻村は再び両手を広げて、その場にいる全員に問いかけた。真っ先に反応したのは阿比留だった。
「お前、何を言ってるんだ。俺は対馬市長だ。対馬市長と国境リーグ理事長を兼任なんかできるわけがないだろう」
「そうだろうな」
辻村はあっさり認めた。
「そうだろうなって、お前……、大事な緊急理事会でふざけるんじゃない」
言葉の最後に阿比留はテーブルを強く叩いた。
「市長は辞任すればいいじゃないか」
「はぁ? ふざけるのもいい加減にしろ!」
阿比留は再びテーブルを叩いた。
「ふざけてなんかいないよ。俺はいたって真剣よ。阿比留、俺は物事を本質的に考えるようにしてるんだ。お前が対馬市長になったのは、対馬の苦しい懐事情を何とかしたいっていう思いが一番だったんだろう。だったら国境リーグが対馬にとって一番大事だ。国境リーグがつぶれたら対馬はつぶれてしまうかもしれない。お前が今、一番にやるべきことは対馬市長を続けることじゃなくて、国境リーグを理事長として引っ張っていくことじゃないのか?」
辻村は真剣な顔で阿比留に語りかけた。阿比留は黙っていたが、松尾が口を開く。
「啓、俺はそこまで考えが及ばなかったが、辻村の言う通りかもしれんぞ」
「先輩まで何を言うんですか……。俺は市長としてやり残してることがありすぎるくらいで、まさに志半ばですよ。今、市長の職を放り投げて、次の市長にバトンタッチするなんてことできませんよ」
阿比留は、あきれたという表情で言った。辻村はさらに意外なことを口にする。
「橋本に任せればいいじゃないか。あいつならお前の志を継いで立派な市長になってくれるぞ。それに橋本なら行政の長として国境リーグとの関係を円滑に進めてくれるんじゃないか? と言ってもまだ橋本に『市長をやれ』なんて話してるわけじゃないけどね」
辻村のこの言葉を聞いた松尾が口を開く。
「いや~、これは驚いた。辻村がそこまで考えているとは……。確かに橋本くんなら、市長秘書としてこれまですべてを見てきたわけだから、志を継いでくれるだろうな。どうだ啓、真剣に辻村が言っていることを考えてみないか?」
「先輩、簡単に言わないでください。今、俺が市長を辞任すると、選挙をしなければなりません。仮に橋本が市長を継ぐことを了承したとしても選挙で当選するとは限りません。選挙となれば、お金もかかります。この状況で選挙をやることは現実的ではないでしょう」
阿比留は松尾の方を見て言った。
「そうか……。難しいか……」
松尾が呟く。
「それに規約では、国境リーグの理事でもない俺が理事長にはなれませんよ」
そう言う阿比留に辻村は、
「規約なんてものは変えりゃいいのよ。実情に合わせてね」
もっともな意見を言う。そして続ける。
「阿比留もすぐに決断なんかできないだろうが、1度考えてみてくれよ。それまでは副理事長の三島さんに代行という形でお願いすればいいじゃないか。正式な理事長選出はしばらく後でもいいだろう。なぁ阿比留、俺はふざけてないぞ。真剣に考えて、お前しかいないと思ってるんだ。お前に国境リーグを引っ張ってもらいたいんだ」
「お前がふざけてるわけじゃないことは俺もわかったが……」
辻村の熱意を感じた阿比留は、明らかに心が揺れている自分に気がついた。
本来、理事会では、挙手をして、議長に指名されてから発言するのが原則である。しかし、挙手を経ての発言は最初の辻村だけだった。辻村の思いも寄らない提案に驚いた一同は、いつの間にか、この場が理事会であることを忘れたかのように、各々が勝手に話し出していた。
議長として理事会を進行する役割を担っていた三島が、次期理事長選出について、この場での決定は無理だと判断し、緊急理事会を閉会すべく口を開いた。
「本日の緊急理事会は、次期理事長選出を目的に開催されましたが、辻村理事からの提案があり、新理事長選出は先送りとします。新理事長が選出されるまでは、対馬市や事務局と密に連絡を取り合いながら、副理事長である私三島が理事長代行の職務を遂行してまいりますので、みなさん、ご協力を宜しくお願いします。本日の緊急理事会は、これにて閉会いたします。お疲れさまでした」
緊急理事会が閉会した後も辻村は、阿比留の隣に座り、「お前しかいない」と説得を続けた。松尾も辻村の考えに賛成だと阿比留の説得に回ってきた。三島や他の理事たちも同様である。阿比留の心は大きく揺れ動いていた。
31
緊急理事会が開かれた日の夕方、練習を終えた海人のスマホが鳴った。辻村からだ。
「海人?」
「辻村さん、こんにちは」
「俺、今、厳原にいるから飯でも食べようや?」
「はい。グニョンとウソンも一緒にいいですか?」
「ああ、いいよ。グニョンちゃんに早く会いたいなー」
「どこへ行けばいいですか?」
「そうだなー、一ノ瀬にしよう。7時だな。7時に一ノ瀬で待ってるから」
辻村が決めた一ノ瀬は、大手橋にある石焼きが有名な和食料理屋である。
「分かりました。グニョンとウソンの3人で行きます」
7時少し前、海人とグニョン、ウソンの3人は一ノ瀬の暖簾をくぐった。すると、奥の個室から辻村の甲高い声がする。
「おーい、こっちこっちー」
「こんばんは」
3人は声をそろえて挨拶した。個室は掘炬燵式のテーブルで、辻村の隣にウソン、向かい側に海人とグニョンが座った。先に来た辻村が頼んでおいた瓶ビールをそれぞれのグラスに注ぎながら、辻村が言う。
「それにしてもお前たち3人は仲がいいねー。いつも一緒にいるんじゃないか?」
「そんなことないです。たまには海人とグニョンのふたりにしてあげてます」
ウソンがふたりを冷やかした。
「さすがウソン。気配りの人だね~。ウソンは彼女いるのか?」
辻村が訊ねた。
「今の僕の恋人は野球です。亡くなったサンミョンの分まで野球をがんばるだけです」
「お前はまじめだなー。辻村さん、早く乾杯しましょう」
ビールを目の前にして我慢できなくなった海人が言った。辻村が音頭をとる。
「それじゃ乾杯!」
「カンパーイ!」
辻村に従って3人もグラスをカチンと軽く当てて乾杯した。乾杯した後、辻村が注文しておいた石焼きコースの前菜が運ばれてきた。カセットコンロと鉄板の役目をする石はすでにテーブルに置いてある。接客担当の女性から受け取った前菜をウソンの前に置きながら辻村がウソンに話しかける。
「ところでウソン、この前は見学に来てくれてありがとうな。うちのような通販番組でも役に立てたかな?」
「こちらこそ見学させてもらってありがとうございます。とっても勉強になりました。終わった後に屋台に連れていってもらって、スタッフの人たちにたくさん質問しました。とってもとってもありがとうございました」
「ウソン、お前、長浜の屋台に連れていってもらったのか? 俺も行きたかったな~」
海人がうらやましそうに言った。
「海人は屋台のとこ行ったことありませんか?」
ウソンが聞いた。
「あるよ」
海人が答える。するとグニョンが海人とウソンの顔を見ながら言う。
「え~、私だけ行ったことないの……。ずるい~」
ビールのグラスを手に取って一口飲んだ後、海人が言う。
「ずるくはないだろう。わかった。わかった。今度、一緒に行こうな」
「福岡に来たらいつでも連れて行ってやるよ。グニョンちゃんなら大歓迎だから。いつでもおいで」
「ワ~イ、ワ~イ、ヤッター」
グニョンがバンザイしながら子供のように喜んだ。
「俺も一緒にいいですか?」
海人も便乗する。辻村は当然のように了承する。
「もちろんいいさ。福岡に遊びに来ればいいよ。ウソンもまたおいで」
「はい。僕もまた行きたいです。ラーメン、とってもおいしかった」
ウソンも笑顔で応えた。
「ところで、お前たち明日の午前中、空いてないか?」
辻村が3人に聞いた。
「俺は午前中から練習です」
海人が答える。
「私も事務局で仕事です」
グニョンが続く。辻村は困った顔をする。するとウソンが、
「僕は、午前中なら大丈夫ですよ。韓国側のチームは、明日の午後、一時的にプサンへ戻るから、午前中はオフです。何かありますか?」
ウソンだけ予定が空いていた。
「いや、大したことじゃないんだけど、あそこの立亀岩に登ってみようと思ってね」
辻村が立亀岩の方を指さして言った。
「立亀岩ですか? 小学生のときに何回か登ったことあるけど、大人になってからはないですね」
厳原で生まれ育った海人だけは登ったことがあった。立亀岩は、厳原港にそびえ立つ岩で、厳原のシンボルともいえる。亀が立っているように見えることからこう呼ばれる。
「あそこね~。登ったことないわ~。登るの大変そうね」
グニョンが言った。
「俺は高校から厳原に出てきたんだけど、あそこに登ったことはないから、1度くらい登っておこうと思ってさー。最近こんなの始めたから、あそこに登って写真撮って載せようかなって思って」
辻村は買ったばかりのスマホから自身のインスタグラムを開いて見せながら言った。
「インスタやってるんですか?」
3人は声を揃えて驚いた。辻村は照れくさそうに言う。
「ああ、昨日始めたんだ。ガラケーからスマホに変えたんで始めてみたんだけど、何を載っけたらいいのかわからなくてさー。お前たち若者は、この料理とか撮って載せたりするんだろ? でも、それじゃ、いい年したおじさんとしてはつまらないからね。折角、厳原に来てるわけだから、厳原のシンボルから港や町を見下ろした景色でも載っけようかなと思ってさー」
「グニョンも海人も明日は忙しいですから、僕が一緒に行って、辻村さんの写真撮ってあげますよ」
ウソンが言った。
「そうか~ウソン。ありがとう。ウソンの写真も撮ろうな」
辻村が両手を合わせてウソンに礼を言った。
「いいえ、どういたしまして。僕の写真も撮ってください」
ウソンはカメラのシャッターを押す素振りをしながら言った。
4人はその後、石焼きを食べながらさまざまなことを話した。グニョンと海人の高校時代のこと、ウソンの大学時代のこと、海人のプロ野球選手時代のこと、グニョンがプサンで働いていたときのことなどである。辻村は、3人の話を聞いたり、質問したりするだけで、自分のことはほとんど話さなかった。20代前半の3人と50代の辻村では年代の差が大きく、それも致し方ないところである。だが、4人が食事をする個室の風景に違和感はなく、ときたま大きな笑い声が外へ聞こえていた。
32
翌日、海人は午前9時からのチーム練習でバッティングピッチャーを務めた。走り込みの成果があらわれていることを実感できる自らの投球に満足して、クラブハウスへ帰ってきた。時計を見ると、午前11時を少し回っていた。汗だくで自分のロッカーまで戻ってきたとき、海人のスマホが鳴った。辻村からである。
「あ、辻村さん、夕べはごちそうさまでした」
海人は夕べの食事のお礼を言った。
「海人、すまん。大変なことになった」
明らかに辻村の声の様子がおかしい。
「どうしたんですか?」
「落ちたんだ。ウソンが……」
「落ちたって、どういうことですか?」
「立亀岩からウソンが落ちたんだ」
「えっ、立亀岩から……、ウソンが……、落ちた……」
「そうだ……。ウソンが立亀岩のはしに立って、俺が写真を撮ってるときに、足を滑らせて、下に落ちたんだ……」
「そ、そんな……。今、どこなんですか?」
「救急車の中だ。対馬病院に向かってる」
電話の向こうから救急車のサイレンが聞こえていたため、辻村が救急車の中にいることは海人にもわかっていたが、気が動転しているため、「どこの病院に向かっているんですか?」と言うところを間違えて聞いてしまった。
「わかりました。すぐに俺も向かいます。グニョンにも連絡して一緒に行きます」
「ああ、そうしてくれ。本当にすまない……。俺がウソンを誘ったばっかりに……」
「そんなことないです。辻村さんのせいじゃない。とにかく向かいますから」
そう言うと電話を切り、海人はグニョンに電話してウソンの事故を伝えると、すぐにタクシーをよび、ティアラの前で待っているグニョンを拾って対馬病院へ向かった。
20分ほどで対馬病院へ着くと、救急搬送されたウソンは手術中であることを告げられ、手術室の前に行くと、辻村が座っていた。
「辻村さん!」
海人が声をかけた。辻村はがっくりと肩を落としていたが、顔だけ海人の方を向いた。
「おお……、来たか……。海人、本当にすまない……。こんなことになるなんて……」
「どうなんですか? ウソンの容体は?」
「良くないようだ……。港をバックにして写真を撮ろうとして後ろに下がったときに足を滑らせて、下に落ちてしまった……。プサンから来た観光客の若いカップルがたまたま上にいたんだが、ウソンが落ちるところを一緒に見てた」
「どこに落ちたの?」
グニョンが聞いた。
「俺が下に降りたときにはもう救急車に乗せられていたんだが、家の屋根にバウンドしてから、家と家の間の道のコンクリートの上に落ちたらしい。頭から相当な出血があったようだ……」
辻村は、とても辻村の声とは思えないか細さでぼそぼそと答えた。
「頭を強く打ったということですか……」
海人の問いに辻村は力なく答える。
「ああ……。本当に何でこんなことになってしまったんだ……」
「辻村さん、自分を責めないでください」
「そうよ。辻村さんのせいじゃない」
海人とグニョンは、力なく肩を落とす辻村を慰めた。
「そうだ。グニョン、ウソンの両親に知らせなきゃ」
海人は、思い出したようにグニョンに言った。
「そうね。ウソンとは幼なじみだから、私、ウソンのお父さんやお母さんもよく知ってるの……。おじさんとおばさんがどんなに悲しむかと思うと……。でも、知らせなければならないわよね。私、電話して来る」
そう言うとグニョンはその場を離れた。
グニョンがウソンの両親に電話をして戻ってきてから、辻村も、海人も、グニョンも一言も発することなく椅子に座っていた。海人は、左右それぞれの手をギュッと力一杯握りしめて膝の上に置いていた。グニョンは、指をからめて両手を握り、少し前かがみになった顔の前にもっていき、ずっと祈っていた。辻村は、両手をだらんと力なく下にたらし、浅く椅子に座ってただ天井を眺めていた。
30分ほど経った頃、対馬南警察署の刑事がふたりやって来た。ウソンが転落したときの状況を辻村に細かく聞くためだ。ふたりの刑事は、たまたま立亀岩に登っていて、ウソンが転落する瞬間を目撃した韓国人カップルからすでに話を聞いてきていた。30分ほど辻村は刑事に話を聞かれていたが、辻村の話と韓国人カップルが話したことに相違点はなく、ふたりの刑事は病院から帰っていった。警察は、ウソンの転落に事件性はなく事故と判断したようである。
ふたりの刑事が病院から帰って1時間ほど経過した頃、手術室の扉の上にある「手術中」のランプが消えた。しばらくして中年の男性医師が手術室から出てきた。真っ先に医師に近づいたのは海人である。グニョンも続く。
「先生! 先生、ウソンは、ウソンは……」
海人が言葉にならないほど小さい声で、すがるように聞いた。
「手は尽くしましたが……。頭を強く打っており脳幹の損傷が激しく……、残念ながら、脳死の状態です」
医師の口から出た言葉は、最も聞きたくない残酷な現実を告げるものだった。
「脳死だなんて……」
海人とグニョンは膝を折り、くずれるように床へうなだれた。辻村は全く動かなかった。
しばらくして手術室からウソンを乗せたストレッチャーが出てきた。口には人口呼吸器をつけている。海人とグニョンが駆け寄る。
「おい! ウソン! お前、こんなところで死んでいいのかよ! 俺と勝負するんだろ! 親友の分まで野球やるんだろ! おい! 起きろよ。起きてくれよウソン!」
海人はウソンの顔を見て声をかけ続ける。
「ねえ、ウソン! 起きて! 目を覚ましてウソン!」
グニョンもウソンの手を握りしめ声をかけ続けた。しかし、ふたりがどれだけ声をかけ続けてもウソンは反応しなかった。

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