24
3人の韓国人が国境リーグの理事に加わった3日後、執務を終えた阿比留が帰り支度をしているときだった。ドアをノックする音がしたと思うと、いきなり辻村が入って来た。
「よう、市長、元気かー?」
「お前、橋本くんを通せよ」
「そう固いこと言うなよー。俺もワイルドキャッツの理事なんだからさー」
「ほら、お前はすぐそういうことを言って、でかい態度をとるだろ。俺はそこが嫌いなんだよ」
考えてみれば、最近の阿比留は、辻村に対して思ったことをそのまま口にしている。それでも辻村は怒らない。怒るどころかどんどん接近してくる。
「そんなこと言うなよー。ゴメンゴメン。以後気をつけるからさー」
「で、何の用だ? 夜は予定があって忙しいんだ。手短にな」
「お前、いつも『手短に』じゃないかー。たまにはゆっくり話そうよー」
「気持ち悪い奴だな。早く用件を言え!」
「はい、わかりました……。で、俺な、リーグのこといろいろ考えてみたんだよ。やっぱり将来的にリーグを支えていくのはファンだと思うのよ。特に国境リーグには、ソシオって制度があるだろ。そのソシオの会員をどうやって増やしていくかってことが一番大事なわけよ」
「それはその通りだな」
「で、まずこんなのつくってみました」
そう言って辻村はカバンの中からメガホン、タオルマフラー、マグカップ、腕時計を取り出した。それぞれ四種類あり、キャラクターが描かれている。国境リーグの四チームそれぞれのロゴマークと、それに合わせたキャラクターだ。
「お前、これつくったのか?」
「ああ、試しにちょっとつくってみた。デザインはこれからもっとかわいくしていきたいけど、こんなのがあった方が若い女の子にはウケがいいからね」
「確かにそうかもしれないな……」
「おお、珍しく俺を褒めたねー」
「褒めたわけじゃない」
「あらっ、そうなの……。まぁ、いいか……。とりあえずこんな感じのグッズをつくって、うちの会社で売り出したいんだよ。そして、そこから先、俺にひとつ考えがあるんだ」
「考えって、お前、変なこと企んでるんじゃないだろうな?」
「企んでない、企んでない。絶対、悪いことじゃないから安心してくれよ」
「わかった。とりあえず、正式なグッズのデザインが出来たら、俺と松尾先輩には見せてくれよ。それで公認グッズってことにしよう」
「了解しました。阿比留市長!」
「お前はいちいち鬱陶しいなー」
「冷たいねー。そんな俺が大好きなくせにー」
そう言うと、辻村は出て行った。
阿比留は、辻村が経済的に成功した理由が分かったような気がした。恐ろしいほどの行動力を辻村は持っている。
1週間後、辻村は、早速、新しいキャラクターグッズのデザインをメールで送ってきた。メガホン、タオルマフラー、ハンドタオル、携帯ストラップ、マグカップ、Tシャツ、ぬいぐるみがそれぞれ4種類ずつあった。阿比留が見る限り、特別にかわいいと思うものでもなかったが、正直、阿比留にはよくわからなかった。
阿比留は松尾に電話した。
「先輩、今どこにいますか?」
「ワイルドキャッツの事務局にいる」
「そうですか? それじゃあ辻村がメールで送ってきたキャラクターグッズのデザインはもう見ましたか?」
「ああ見たよ」
「先輩はどう思います?」
「どう思うかって言われてもなぁ……。俺みたいなおじさんにはわかるわけないだろ」
「やっぱりそうですよね……」
「でもな、さっきグニョンが見て、『かわいい』って言ってたぞ」
「そうですか。それじゃぁ、これでOKってことで大丈夫ですよね?」
「そうだな」
「それじゃ先輩、辻村に電話して『これでいいぞ』って言っといてくださいよ」
「お前が電話すればいいじゃないか」
「いやー、どうしても俺はあいつが鬱陶しいんですよ」
「まぁ、確かに分かる気もするけどな……。でもお前、俺が電話するより、お前が電話した方が辻村は喜ぶんじゃないのか?」
「別にあいつを喜ばしてもね。ますます鬱陶しくなるだけですよ」
「いやいや、お前が電話した方がいいよ。辻村には世話になってるんだから。お前が電話してくれ」
「先輩も辻村のこと苦手なんですね」
「実はちょっと苦手だ。ああいう軽い乗りの奴は……」
「わかりました。俺が電話しておきます」
松尾との電話を切った後、嫌々ながら阿比留は辻村に電話した。
「阿比留だけど」
「おお、市長ー。メール見てくれた?」
「ああ見たよ。正直、俺や松尾先輩にはよくわからないんだけど、グニョンが『かわいい』って言ってたらしいから。あれで進めてくれ」
「OKー。了解。それでな阿比留、丁度良かったよ。電話してくれて。ひとつ聞きたいことがあったんだ」
「何だ?」
「ユニフォームだよ。ユニフォーム。グッズの中で一番大事なのはレプリカユニフォームだぞ。今、ユニフォームはどうなってる?」
「ユニフォームなら、4チーム分ともメーカーのハミングバードに提供してくれるよう交渉してるとこだけど……」
「ハミングバードか……。よし、分かった。あそこの深水会長ならよく知ってるから、ユニフォームの件、俺にまかせてくれ」
「わかった。お前も理事のひとりなんだから、頼むよ」
「あれっ、今日はやけに素直だねー。お前も40年かけて、ようやく俺の良さが分かったってことだなー」
「そうやって調子に乗るところが嫌いなんだよ。俺は」
「はいはい。ゴメンなさーい」
本音では、ユニフォームの交渉を辻村が引き受けてくれて安心した阿比留であった。
3日後、阿比留の携帯の留守電に「辻村でーす。ユニフォームの件、4チーム分ともバッチリOKになりましたー。阿比留くんの喜ぶ顔が目に浮かびまーす。レプリカユニフォームの方もこっちでハミングバード側と進めておくからよろしくー」という留守電が入っていた。
7月のある日、早めの昼食を終えた阿比留が市長室に戻ってきた時だった。秘書室長の橋本が市長室に飛び込んできた。
「市長!」
「どうしたんだ、そんなに慌てて……」
「今、新聞のテレビ欄見てて気づいたんですけど、テレビ、急いでテレビをつけてください。4チャンネルです」
「テレビ? わかった……。4チャンネルだったな……」
お昼のトーク番組だった。大御所女性タレントがゲストを呼んでトークをくり広げる長寿番組である。今日のゲストは、最近、毎日のようにテレビに出ている宮村つばめという女性アイドルである。司会の女性タレントが事前の予定通りに話をふる。
「宮村さんは、最近、ハマっているものがおありになるんですって?」
宮村つばめは、羽織っていたカーディガンを脱ぐと、中に着ていたTシャツの胸の部分にプリントされているキャラクターを指さした。
「この子なんですー」
「何ですか? そのキャラクターは?」
司会者は事前の打ち合わせで知っているが、あえて知らないふりをする。
「来年から始まる国境リーグのメインキャラクターの『ボーダー』くんです! かわいいでしょ?」
「は……い。かわいい……ですね」
司会者は戸惑ったふりをしているようだ。
「そうでしょう。かわいいですよねー。このとぼけた感じの目なんか特に!」
「それで……、国境リーグってなんですか?」
司会者は当然知っているが、あえて質問している。
「えーっ、知らないんですかー。日本の対馬と韓国のプサンをまたいで試合が行われる野球の独立リーグですよー」
「そうですか……。野球の独立リーグなんですね」
「はい。独立リーグです。対馬とプサンに2チームずつできていて、来年からリーグ戦が始まるんです。えーっと、これが、今、対馬につくられている球場なんですけど……」
そう言いながら、つばめは持ってきた鞄からクリアファイルにはさんでいたA4サイズの紙を出して司会者に見せた。建設中の金石スタジアムの完成予想図である。
「どうですか? お城みたいでしょ?」
「これが球場なんですか……。ちょっと微妙じゃないですか……?」
司会者はあえて否定的なことを言って、つばめに魅力を話させようとしているように見える。つばめは台本通りに、球場横の庭園の写真を出して説明を始めた。
「ヤダー、そんなことないですよー。おしゃれじゃないですかー。この球場の隣には、この写真の庭園があるんです」
つばめはクリアファイルから旧金石城庭園の写真を取り出した。
「この庭園って、江戸時代につくられた庭園で、昔は一部が中学校のお庭だったそうなんですが、中学校が移転してしばらく経ってからほかの部分も発掘されたんです。今は観光スポットなんですけど、この庭園とお城のような球場がマッチしてて素敵だと思いません? そんな球場で日本のチームと韓国のチームが野球をやるんですよ。盛り上がると思いませんか? それに、結構、選手もイケメンが多いんですよ」
驚いたことにつばめは、その後も鞄から辻村が作ったタオルマフラーやマグカップなどの国境リーグのグッズを出して、「かわいいでしょ」と言いながら、国境リーグの説明を延々と続けた。そして最後に「ソシオ会員も募集中でーす」と宣伝までしてしまった。司会者から「宮村さんはそのリーグの関係者なんですか?」と聞かれるほどだったが、「単なるファンでーす」と、きっぱりと否定した。
番組が終わると、すぐに辻村から電話がかかってきた。
「テレビ、観てくれた?」
「ああ、やっぱりお前の仕業か……」
「仕業はないだろー。仕業はー」
「お前、あの子、知ってるのか?」
「知ってるもなにも、あの子は俺の娘だよ」
「娘?」
「あっ、お前本気にしたろ?」
「この野郎、そばにいたら引っぱたいてるところだぞ」
「悪い、悪い。つばめはまだ全然売れてなかった頃、うちの通販番組でアシスタントをやってたんだ。うちの番組ってさー、深夜にもやってるから、結構、業界人も見てるんだよ。それで『おっあの子かわいいじゃないか』っていうプロデューサーやディレクターがたくさんいてな。俺も売り込みに力貸したら、あっという間に大スターよ」
「そういうもんなんだな……」
「つばめは律儀な子だから、俺や会社に恩義を感じてるのよ。『私で役に立てることがあったら何でもします』っていつも言ってくれるわけ。それで、ちょっとお願いしたんでございますよ」
「グッズをつくる時にお前が言ってた『ひとつ考えがある』っていうのは、このことだったんだな」
「正解!」
「お前、ホントしたたかな奴だな」
「お褒めいただいてありがとうございます」
「褒めてないよ」
「あっそう。でもさー、これで少しはソシオの応募も増えるんじゃないか?」
「だといいけどな」
「今のつばめの人気は凄いからねー。インフルエンサーってやつよ。インスタでも宣伝しといてもらうからさー。これからもつばめの力は利用させてもらおうぜー」
そういうと辻村は電話を切った。
阿比留は、辻村が次から次にワイルドキャッツのために動いてくれたため、少しずつ辻村に心を開いている自分に気づき始めていた。
25
「とにかくスクープを取ってこい! 契約延長の話はそれからだ!」
週刊「SHINSO」契約ライター、高杉伸二は、編集長の木村直樹から3日前に言われたこの言葉が頭から離れない。梅雨が明け、本格的な夏がやって来た7月半ば、ワンルームマンションの室内を快適に冷やしていたエアコンのタイマーが切れると、高杉は夢にうなされて目を覚ました。エアコンが入っていない会議室で木村に怒鳴られている夢である。夢の中の木村は、エアコンのリモコンを右手に持って、「つけて欲しかったらネタを出せ」と追い詰めてくる。高杉が「ちょっと待ってください」と言うと、いきなり右手に持っていたリモコンを投げつけてきた。高杉は左手でリモコンを払おうとしたが間に合わず、リモコンは高杉の顔面を直撃した。だが、痛くない。「なんで痛くないんだ?」と思いながら、高杉は目を覚ました。最悪の夢である。夢にまで木村が出てきて、スクープを求められた。時計を見ると午前3時である。エアコンをつけて再び眠りにつこうとしたが、嫌な夢を見て目が覚めた後では、なかなか寝つくことはできない。
「仕方ない。ネタ探しでもするか……」
そう呟くと、高杉は机に向かい、パソコンの電源を入れた。
9月には38歳の誕生日を迎える高杉だが、家族はいない。未だ独身である。恋人と呼べる女性もいない。父親、母親ともに他界しており、兄弟はいない。交流のある親戚もいない。天涯孤独の身の上だ。
明治大学を卒業後、編集プロダクションに就職。8年間身を粉にして働いたが、2009(平成21)年に会社が倒産。会社は、大手出版社が発行する雑誌や書籍の編集を手がけるかたわら、別の事業にも手を出していた。その事業がリーマン・ショックの影響を受けて破綻。本来の編集プロダクションの業務でも雑誌が休刊となり、20人近くいた社員への給料遅配が数か月続いた後、とうとう首が回らなくなった。倒産で路頭に迷っていた高杉に声をかけてきたのが、大学の先輩である木村である。木村は週刊誌として常に発行部数で上位争いをしている週刊「SHINSO」の編集長をしていた。中堅出版社が発行する「SHINSO」は、木村が編集長になって以来、政治家の不正献金疑惑や芸能人の覚醒剤使用疑惑など、世間を騒がせる大スクープを連発し、発行部数を伸ばしていた。
木村に拾われた形の高杉は、「SHINSO」と専属契約を結び、一定の報酬を得ていた。これまでは無条件で契約は延長されてきたが、今年になって、ライバル誌に世界で活躍する俳優の不倫疑惑や国民的歌手の家庭内暴力のネタをスッパ抜かれたことで、「SHINSO」自体の売れ行きが芳しくなくなり、10月に迫った契約期限を前に、木村から次の契約は白紙だと宣告されていた。契約延長にはインパクトのあるネタが必要だった。ヒット程度のネタではダメだ。ホームラン、それも満塁ホームランとなる大スクープが求められている。高杉は焦っていた。
いつも覗いているまとめサイトに入ると、画面をスクロールして記事になりそうなネタを探す。タイトルをつぶやきながらマウスを動かす高杉の指が、ある記事のところで止まった。
「韓国慶尚グループ社長であり、長崎県対馬市とプサン市で進行中のプロジェクト国境リーグの専務理事であったチェ・テヨン氏が、所有するクルーザーから転落して変死……」
満塁ホームラン級のスクープを求められている高杉にとって、「変死」という言葉は、打ちやすいど真ん中に来たストレートである。芯にあたる確率が高いホームランボールだ。ただし、力んでボールの上っ面を叩くと、自打球になるかもしれない。裏社会に関わる危険な匂いがする要素もはらんでいた。
高杉は、チェ社長の変死事件について調べ始めた。この事件については、長崎県内や福岡県内の新聞、テレビでは大きく扱われたが、全国的に大きく扱われることはなかった。同時期に与党の国会議員と元暴力団組長の黒い交際が明るみになり、テレビのワイドショーが連日このネタを放送したため、埋もれてしまった格好だ。
高杉は、まとめサイトから得た情報からキーワードを抽出し、新たに検索をかけていった。「慶尚グループ」「チェ・テヒョン」「コカイン密輸」「プサン市長逮捕」「国境リーグ」「対馬市」「阿比留啓」「辻村久志」「山猫ネット」などである。それぞれのキーワードに「噂」という言葉をつけて検索していく。
私鉄の線路沿いにある高杉のマンションに始発電車が通る音が聞こえたとき、高杉は大きな声を出した。
「これだ!」
朝9時、編集部に顔を出した高杉は、木村のもとに駆け寄り、タブレットの画面を見せながら言った。
「編集長! これ見てください」
「高杉、お前珍しいな。9時に編集部に来てるなんて……」
社員ではない高杉が編集部へ顔を出すのはほとんどが昼過ぎである。木村の顔を見ながら高杉はもう一度同じことを言った。
「編集長! これを見てください」
興奮気味の高杉を木村がなだめる。
「わかった。わかった。見るから、落ち着けって」
「見つけたんですよ。編集長が俺に求めてるネタを」
そう言うと高杉はタブレットの画面を木村の顔に近づけた。
「国境リーグ? あ~九州の方でちょっと話題になってる野球の独立リーグか……。確か理事だった韓国人の社長が水死したんだったよな。クルーザーからコカインが見つかって密輸が疑われたけど、証拠は出てこなかったんじゃなかったっけ?」
「そうなんですけど、俺が見つけた満塁ホームラン級のネタはそれじゃありません。こっちの方です」
高杉はタブレットの画面をタップしてリンク先のサイトへ入った。
「なるほど……。これならネタになるかもしれんな。詳しく調べてみろ」
「はい!」
元気よく返事をした高杉は、ショルダーバッグにタブレットをしまうと、編集部から出て行った。
26
7月最後の日曜日の朝、ウソンは、博多港にあるベイサイドプレイスにいた。三島翼をお見舞いに行った後、天神で辻村を交えて食事をしたとき、辻村のテレビショッピングを見学させてほしいと頼み、「この日ならいいぞ」と言われたのが今日だった。ウソンは、国境リーグに参加する前、韓国の大学で大学野球の選手として活躍するかたわら、マスコミ学を専攻する学生であった。野球と学業を両立させてがんばっていたところへ、国境リーグの選手募集という情報が飛び込んできたため、迷うことなく大学を休学して、選手選考に応募したのである。
朝7時前に厳原港を出た高速艇に乗船し、九時に博多港へ着いた。辻村には前日、電話で「お昼くらいに会社へ来てくれたら午後の収録を見学していいぞ」と言われていた。辻村の会社がある天神までゆっくり歩いても30分はかからない距離だ。ウソンは「天神の喫茶店で時間をつぶそう」と考え、天神まで歩きだした。今年の夏は涼しい日が多いのだが、今日は35度以上ありそうだ。外に出ただけで顔の表面にジワっと汗が出てきた。福岡都市高速環状線の下を通り、ベイサイド通りを天神方面に歩きだしたとき、ウソンは前を歩くカップルに気がついた。横断歩道を渡る男性の横顔はウソンの知っている人物だった。だが、残念ながら名前は思い出せない。おそらく同じ高速艇に乗っていたのであろう。名前は思い出せないが、ウソンは挨拶をするために、信号が青から黄色に変わる直前に横断歩道を渡りきり、その人物に声をかけようと近づいた。5mくらいの距離に近づいたとき、その男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「やるしかないんだよ!」
男性はそう言っていた。これに対し女性は、
「そんな恐ろしいこと……」
女性の声は震えているようだ。
「仕方ないんだ。お前の協力も絶対必要なんだ。だから頼むよ。手伝ってくれ。頼む」
男性は女性に懇願している。ふたりのただならぬ雰囲気を察したウソンは、声をかけるのを止めて身を隠そうとした。が、遅かった。男性は近づこうとしていたウソンに気づいてしまった。
「ウソンくん?」
男性に気づかれてしまったウソンは、ふたりの会話は聞こえていなかったように振る舞うしかない。
「こんにちは。同じ高速艇だったみたいですね。今日は福岡でデートですか?」
「あ、あ~。彼女が天神で買い物がしたいって言うから」
男性も何事もなかったかのように答えている。
「映画も観るのよね」
女性も会話に加わった。
「ウソンくんはどうして福岡に?」
男性が聞く。
「僕は天神で買い物です。プサンの母に、帽子を送ってあげるんです」
ウソンはとっさに嘘をついた。「スタジオの見学に来た」と本当のことを言うと、そのことでまた会話がつながってしまうかもしれないからだ。ウソンは1秒でも早くその場を立ち去りたかった。
「それでは僕は急ぐので、失礼します」
そう言うと、ウソンはふたりの前から天神方面に向けて走り出した。
その後、ウソンは天神の喫茶店で早めの食事を取って時間をつぶし、正午ごろ辻村の会社を訪問した。辻村は快くウソンを迎え、ウソンは午後、辻村が出演するテレビショッピングの収録を見学した。収録が終わると、辻村に誘われて、長浜の屋台で辻村や辻村の部下5人と杯を交わすことになった。ウソンは、その席で収録に関する技術的なことを次々とスタッフに質問していったが、ふと午前中、高速艇を降りて、天神へ向かって歩きだしたときに遭遇した男性のことを思い出し、そのことを辻村に話した。辻村は「ウソンの聞き間違いだよ。気にすることはない。日本語は難しいからな~。忘れた方がいい」と言ってくれた。この辻村の言葉を受けて、ウソン自身も「自分が心を乱されることではない。忘れよう」と考えるようになった。

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