33
ウソンを乗せたストレッチャーは、ひとり用の病室へ運ばれた。海人、グニョン、辻村の3人は、ウソンの側を離れることなく、ずっと黙ったまま病室内の椅子に座っていた。本来、辻村は夕方の生放送の通販番組に出演するため、午後2時には対馬を離れなければならなかったが、予定をキャンセルして病院に留まっていた。3人が言葉を発しないまま病室で2時間が経過し、もうすぐ午後4時になろうとしていたとき、50代くらいのひとりの男性医師が病室へ入ってきた。医師は、辻村に向かって名刺を出し、話し始めた。
「私は対馬病院で院長を務めております松本健一と申します。ユ・ウソンさんは韓国の方ですが、臓器提供意思表示カードに『自身が脳死状態になった場合、三島翼への臓器提供を希望する』と記されていました。当院で調べましたところ、三島翼さんは、福岡大学病院で心臓移植を受けるためのドナーを待っておられました。そして、偶然にも現在、移植の優先順位が1位であることがわかりました。加えて、ユさんの心臓が三島翼さんに適合することもわかりました。そこで、当院から政府に連絡し、韓国政府へユ・ウソンさんの心臓を三島翼さんへ移植することを了承して欲しいと願い出て、先程、韓国政府から了承するという連絡がありました。今、ユ・ウソンさんのご両親がこちらへ向かっておられますが、到着されましたらすぐにご両親の同意を得て、移植準備にかかります」
辻村は松本医師の言葉を黙って聞いていたが、海人とグニョンは、「移植」という言葉を聞いた瞬間から、あふれる涙をこらえることができなかった。
「ウソンの心臓を翼に移植……」
膝を床につけて泣き崩れながらつぶやいた海人に、辻村は静かに、諭すように言葉をかける。
「海人、ウソンの事故は本当に俺の責任だ……。すまない……。だがな、お前たちが福岡の病院で三島さんの息子を見舞った後、ウソンが言ってたことを俺は覚えているんだ。お前たちも覚えてるだろう。移植はウソンの意思なんだ。もちろん両親の同意が必要だが、ウソンが望んだことなんだよ。俺はウソンの心に応えてやりたい」
「そんな……」
海人は言葉が出てこなかった。代わりにグニョンが涙を流しながら口を開く。
「確かにウソンは、あのとき本心で自分の心臓を翼くんにあげるって言ってたけど、あのときは本当に自分がこんなことになるなんて本気で思ってなかったわ。私はすぐにわかりましたなんて言えない」
「俺も同じだよ……。昨夜だって、あんなに楽しそうにしてたじゃないか。ウソンは……。神様は何てことをするんだよ……。こんなにいい奴を俺はほかに知らないよ……。なのに……。なんでだ……」
海人も涙声である。
「俺も気持ちは同じだよ。だが、ウソンの意思なんだ。ウソンが望んでいることなんだよ。海人もグニョンちゃんも辛いことはよくわかるが、こうなってしまった以上、仕方ない。ウソンの心臓は生き続けるって思ってもらえないか?」
辻村がもう一度、ふたりを諭すように言った。
「辻村さん、俺もグニョンもわかってはいるんです。そうすることをウソンが望んでることは。でも、気持ちを整理することができないんです。今は……」
海人がそう言うと、病室は再び沈黙に包まれた。松本医師はいつの間にか病室から出ていていなかった。3人はウソンを囲むように椅子に座り、ただただときが流れるのを待っているようだった。
窓の外が少し暗くなったころ、病室の扉をスライドする音が聞こえた。3人が目をやるとグニョンが韓国語で口を開いた。
「おばさん! おじさん!」
病室に入ってきたのはウソンの両親である。ふたりはウソンに覆い被さり、大声で泣き崩れた。そしてウソンの手を握り、声をかけながらしばらく泣き続けた。グニョンはウソンの母親の肩に手をやり、寄り添うようにして、一緒に泣き続けた。
両親が病室に入ってきてから10分ほど経ったとき、再び松本医師が病室に入って来て、ウソンの両親を別室へ連れていった。30分後、病室へ戻ってきたウソンの両親は、グニョンに、ウソンの臓器提供を了承したことを告げた。両親はウソンが親友のサンミョンのために必死で募金活動を行っていたことを身近で見ていたのだ。海人とグニョンは、もう気持ちを整理するしかなかった。辻村は黙って頷く。
ウソンの両親が病室へ戻ってきて5分後、松本医師が3人の看護師を連れて病室へ入ってきた。
「これから移植の準備にかかります。ウソンさんはヘリコプターで福岡大学病院へ移送され、明日、福岡大学病院で三島翼さんへの心臓移植手術が行われます。3分間だけウソンさんとのお別れの時間を過ごしてください。私たちは病室の外でお待ちしています」
松本医師はそう言うと、3人の看護師を病室の外へ出るよう促すと自身も出て行った。海人、グニョン、ウソンの父親と母親は、ウソンの手を握り、ただただ「ありがとう」と声をかけ、涙を流した。辻村は「俺はいい……」と、ドア横の壁にもたれかかっていた。3分後、再び松本医師と3人の看護師が病室へ入ってきて、テキパキと準備を整えると、ウソンを運び出した。ウソンの両親は、松本医師に促され、一緒に病室を出て行った。残された3人は言葉を発することなく、ウソンを乗せたストレッチャーを眺めているだけであった。病院の廊下に響くストレッチャーを押すカラカラという音が、とても悲しく感じられた。
ウソンは、すぐにウソンの両親も同乗するヘリコプターで福岡大学病院へ移送された。海人、グニョン、辻村の3人も翌日、一番の飛行機で福岡へ飛び、福岡大学病院へ駆けつけた。三島と妻も病院へ駆けつけ、移植手術が行われる手術室の前で待つウソンの両親に涙を流しながら礼を言った。そして、移植手術開始から6時間後、手術は無事に終わった。
移植手術を終え、無菌室で眠っている翼をガラス越しに見ながら、海人とグニョンは涙を流した。辻村は後ろからふたりの肩にそっと手を置いた。
34
翌日、対馬に戻っていた海人は、新聞を見て驚いた。
「国境を越えた命のキャッチボール ~転落死した国境リーグ選手の心臓が野球少年へ~」
社会面のトップに大きな見出しで、ウソンの心臓が三島翼へ移植されたことを報じていたのである。「ウソン、お前のことが大きく出ているぞ」。心の中でそうウソンに呼びかけた海人の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。
練習へ出かけようと海人が宿舎を出たところ、外でテレビカメラとインタビュアーが待ち構えていた。
「上原選手ですよね?」
「はい。そうですが……」
「亡くなられたウソン選手について、いろいろお聞かせ願えないでしょうか?」
「すみません。これから練習なんで、失礼します」
追いかけてくるカメラマンとインタビュアーを振り切って、海人は練習場へ向かった。
練習場へ着くと、今度は別のテレビカメラが待っていた。カメラを持った記者たちも大勢待ち構えていた。
「上原選手、少しお話を聞かせてください」
「すみません。練習があるんで……」
クラブハウスへ逃げるように駆け込んだ。海人がロッカールームの自分のロッカーを開けたときスマホが鳴った。グニョンだった。
「海人、私、今朝からずっとテレビや雑誌の人たちに追いかけ回されているの」
「グニョンもか……」
「海人もなの?」
「そうなんだ。宿舎の前にいたし、練習場にもたくさん来てる」
「私、どうしたらいいか分からない……」
「わかったグニョン。練習が終わったら、一緒に取材を受けよう。ちゃんと答えた方がウソンのためになるだろうし、生活を邪魔されることもなくなるだろうから」
海人はクラブハウスの外へ出て行って、練習後に取材を受けることを報道陣に伝えた。 そして練習が終わった後、海人とグニョンは一緒に報道陣の前に立った。
「早速ですが、一昨日の事故についてお聞きします。立亀岩に行かれたのは、ユ選手と山猫ネットの辻村社長のおふたりだったんですね?」
「はいそうです」
海人が答え、グニョンが頷く。
「おふたりは、事故の前日、ユ選手、辻村社長とともに厳原の一ノ瀬という料理屋で食事をされたとお聞きしたんですが、間違いありませんか?」
「はい。そうですが、それが何か関係あるんですか?」
海人は、記者の質問の意図がわからず、少しムッとしたように、逆に質問した。記者は慌てて説明する。
「ああ……、辻村社長とユ選手が立亀岩に登ろうということをその食事の際に話していたのかということなんですが……」
「確かに話してましたよ。辻村さんがインスタを始めて、立亀岩に登って撮った写真を載せたいからって、僕たちを誘ったんですが、僕たちは都合が悪かったんで、ウソンだけが一緒に行くことになったんです」
海人の説明にグニョンも頷く。
「そうだったんですか。辻村社長は国境リーグの理事のひとりでもありますが、上原さんと辻村社長は、どういったご関係なんですか?」
「辻村さんは、僕がプロに入った時に後援会をつくってくれて、いろいろお世話になった人です。こっちに帰ってきてからも本当にお世話になっています」
「食事されたときは、辻村社長に誘われたんですか?」
「はい。対馬に来てるからと食事に誘ってもらいました。それで、ここにいるグニョンとウソンも誘って一ノ瀬に行きました」
「ユ選手と上原選手は、独立リーグの合同練習でお知り合いになったんですか?」
「いいえ。高校時代にウソンの野球部が対馬に来ていて、ここにいるグニョンとウソンが幼なじみだったんで、その時からの知り合いです」
「ユ選手が、臓器提供意思表示カードを持っていることをご存じだったんですか?」
「はい。知ってました。ウソンの親友が心臓の病気で亡くなってから、カードを持つようになったと言ってました」
「心臓を提供された患者さんのこともご存じだったと聞いていますが?」
「はい。リーグの理事をしている三島さんの息子さんで、5月に3人でお見舞いに行きました」
「3人というと?」
「僕とグニョンとウソンの3人です」
こうやってほとんどの質問に海人が答えていった。
その日の夜からテレビで海人とグニョンのインタビューが放送され、多くの新聞や雑誌でも取り上げられた。「国境リーグが起こした奇跡」や「国境リーグの成功を天国で祈るユ選手」など、国境を越えた美談として報じられ、独立リーグの注目度が一気に高まった。
35
ウソンの事故死と移植手術が大きく報道された翌日、対馬市長の阿比留は、福岡への出張の準備に追われていた。新聞報道によって、国境リーグへの出資を検討しても良いという福岡の企業が3社も現れ、週末を利用して、橋本とともにプレゼンを行うことが急遽決まったためである。息子の手術以来福岡に滞在している三島も同行する。辻村にも来て欲しいと頼んだが、ウソンの事故に直接関わっているため、勘弁して欲しいと断られてしまった。
朝8時、自宅のパソコンで、昨夜、橋本から送られてきたプレゼン用の資料に目を通していた時、携帯が鳴った。橋本からである。
「おはよう。資料ありがとう。今、見てるところだ」
「おはようございます。市長、今日の午前中の予定は覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、健康診断だろ。9時半にはタクシーで対馬病院へ向かうよ。そのまま空港だな」
「12時半の飛行機ですから、12時前に病院へお迎えに行きます。病院から空港はすぐですから、12時でも大丈夫でしょう」
「頼むよ。君の彼女が採血してくれるんだろ。痛くしないように頼んでおいてくれ」
「なに子どもみたいなこと言ってるんですか。それでは、後ほど」
そう言って橋本は電話を切った。阿比留はパソコンの画面で見ていた資料をプリントしてクリアファイルに入れ、鞄に押し込んだ。橋本が作った資料は完璧だった。出資する企業側のメリットが明確に記されている。これならば修正する箇所はない。タクシーや飛行機の中で内容を完璧に把握しておけば大丈夫だと阿比留は判断した。
午前11時半、採血や心電図、X線検査などの健康診断を終えた阿比留は、対馬病院の待合室の椅子に座り、橋本を待っていた。土曜日の午前中は診察を待つ人は少ない。阿比留がプレゼン用の資料を鞄から出して目を通していると、そこへ橋本がやって来た。玄関の方からではなく、診察室の方からだった。阿比留が声をかける。
「おや、俺がここに来るより先に来てたんだな」
「はい。彼女に痛くしなかっただろうなって確認してきました」
橋本がこういうことは言うのは珍しい。
「冗談です。彼女がスマホを忘れて出かけたんで、スマホを届けに行ってました」
「そうか。それじゃ行こうか」
「はい」
その後、阿比留と橋本は飛行機で福岡国際空港へ向かい、空港で三島と合流して、昼食を済ませ、午後3時から福岡の天神に本社を置くある企業を訪問して国境リーグへの出資に関するプレゼンを行った。なかなかの好感触で、阿比留は橋本、三島と一杯やりたい気分になった。時計を見ると、午後6時を少し回ったところだ。
「今日はお疲れさまでした。どうだい? これから中洲へでも行って、一杯やらないか? どうですか? 三島さん?」
阿比留は橋本と三島の顔を順番に見て言った。
「私は息子の病院へ行って様子を見てきます」
三島が答えた。
「そうですか。息子さんは大事なときですからね」
「市長、もし宜しかったら、これから辻村社長のところへ行ってみませんか? 今朝、山猫ネット時代の友人から電話があって、ウソンくんの事故以来、あの元気な辻村社長が相当落ち込んでるらしくて、今は生放送ができない状態なんだそうです。まだ事故から4日目なんで無理もないとは思うんですが、古い友人の市長が訪ねてきたら社長も少しは元気が出るんじゃないかと思うんですが……」
橋本が阿比留の顔を見て提案した。
「そうか……。あいつのとこへ行ってみるのもいいかもな。この前、あいつが言った『俺が市長を辞めて国境リーグの理事長になって、君が次期市長に立候補する』っていう話、本当のところどう考えているのか、よーく聞いてみたいしな……」
阿比留は、自分が辻村の家に行ってもいいと思うことが不思議だったが、あの元気な辻村が落ち込んでいると聞けば、慰めてやりたくもなる。
「わかりました。ちょっと社長に電話してみますね。ここはちょっとうるさいんで、あっちに行ってかけてきます」
そう言うと橋本は、阿比留と三島がいる人通りが多い歩道から10mほど離れた人通りが少ないビルの壁際に行った。電話をかけて。3分ほどで戻ってきた橋本は辻村との会話の内容を伝える。
「社長は、仕事を終えて、このあたりの行きつけの店で食事をしようと思っていたみたいですが、市長が来ますと伝えると、『あいつは奢らせてくれないから、俺の自宅に来てくれ』とおっしゃっていました」
「あいつの自宅はどこなんだ?」
阿比留が訊ねると、橋本が答える。
「あそこの角を曲がったところから少し歩いたとこに建つ高層マンションの14階です」
橋本がマンションの先端が少しだけ見えている高層マンションを指さす。
「さすがにいいとこに住んでるなー」
阿比留が驚いた表情を見せる。
「1時間くらいしたら来てくれとおっしゃっていましたんで、少しその辺の喫茶店で時間をつぶしませんか?」
「ああわかった」
阿比留と橋本は通りに面した喫茶店に入り、三島はそこで別れて地下鉄に乗り、福岡大学病院へ向かった。クラシック音楽が流れ、昭和の面影を残す昔ながらの喫茶店に入ったふたりは、ともにブレンドコーヒーを注文すると、阿比留が橋本に聞いた。
「緊急理事会の後、君は辻村とは話してなかったのか?」
「はい。先程、電話で話すまで、話せていませんでした。市長から『辻村は君を市長にすればいいと言ってるぞ』と聞いてから、すぐに電話したんですが、そのときはウソンくんの事故が起こった直後だったようで、電話には出てもらえませんでした」
阿比留は、緊急理事会の翌日、橋本に辻村が緊急理事会で言ったことを話していた。橋本は寝耳に水という顔をしていたため、阿比留は、本当に辻村は橋本に何の話もせずに、自分の後継者として橋本を推薦したのだと思った。
「その後でウソンくんの事故のことを知ったので、とても社長と話せる状態ではないと思いまして、時間を置こうと考えました。それで、今朝、山猫ネット時代の友人から電話をもらったんで、今日、会いに行こうと思ってました」
橋本らしい気の遣い方だと阿比留は思った。
「それならば今日はちょうど良かったな」
「はい」
「それで、君はどうなんだ? 仮に私が市長を辞職して、国境リーグの理事長になると決めたら、市長選挙に出るのか? 君が出ると言うならば、辻村の言う通り、君になら市政を任せられると俺は思ってるんだが……」
阿比留は、橋本との会話の中で自ら口にしたことで、自分の進むべき道がわかったような気がした。辻村が言ったように本質的に考えれば、どうすれば対馬の財政を良くできるかということだ。自ずと答えは出ているのかもしれない。しかし、橋本から返ってきた答えは阿比留が望んでいるものではなかった。
「市長、自分が市長選挙に出馬するなんて、とんでもないことです。自分は対馬の人間ではありません。市長秘書としてほんの数年仕事をさせてもらっただけです。辻村社長や阿比留市長が私を評価して、そのように言ってもらえることは、この上なく幸せなことですが、私が市長選挙に出馬するなんて、ありえないことです」
「そ、そうか……。でも君は大学で地方行政を勉強してきたんだろう。市長になれば今まで以上に学んだことを実践できるとは思わないか?」
「大学で地方行政を学んだと言っても、うちの大学は政治学の専門的な学科があるわけではありません。法学部だった私は行政学という授業を受けて、地方自治法や地方分権などを少し勉強しただけです。それに私は市政のトップに立てるような人間ではありません。市政は、私が学んだことを実験的に実践する場ではなく、市民のためにことがなされる場でなければなりません。もし市長がお辞めになって、後継者をお探しになるならば、私ではない誰かを探してください」
橋本はきっぱりと市長選挙出馬を否定した。
「わかった。辻村が勝手に言ったことだからな。私がどう進むべきかと君のことは切り離して考えることにするよ」
「そうしてください」
阿比留と橋本は、1時間ほど喫茶店で過ごし、午後7時に辻村のマンションへ向かった。
辻村のマンションは、最上階にある4LDKで、玄関だけでワンルームマンション1部屋くらいはあった。玄関のドアを開け、阿比留と橋本を迎え入れた辻村は、とても落ち込んでいるとは思えないほど明るかった。いつもの調子の辻村であった。
「阿比留~、いらっしゃ~い。お前が俺の家に来てくれるとはな~。嬉しいよ~。さあ、入れ入れ、橋本もほら」
玄関に用意されていたスリッパを履いて、招き入れられたリビングは、ダイニングと合わせると40㎡はあろうかという広さであった。リビングへ入りながら阿比留は素朴な疑問を辻村にぶつけた。
「お前、こんな広いとこにひとりで住んでるのか?」
「そうだよ。独身だもん」
「必要か? こんなに広い家が。もったいない」
「まぁまぁ、そんなどうでもいいことは後にして、とりあえずソファに座ってくれ。こっちのソファで乾杯しようや。鞄はソファの横に置いてさ。今日は、とびきりいい肉を買ってきたぞ。これから焼くから、このワインでも飲んでゆっくりしてくれ。ワインの値段は聞くなよ~。橋本、向こうのテーブルに置いてあるワイングラスをこっちのテーブルまで運んでくれ」
ソファ前のローテーブルの上に置いてあった赤ワインを手に取りながら辻村は言った。阿比留は言われた通り、鞄をソファの横へ置き、ソファの端に座った。橋本はソファの裏に鞄を置き、ソファの後方にあるダイニングテーブルへワイングラスを取りに向かった。ソファ前のローテーブルには、デリバリーで頼んだであろうオードブルと取り皿3つにフォークが添えられていた。まだスーツ姿だった辻村は、「ちょっと着替えてくる」と言って、奥の部屋へ入っていった。
ひとりソファに座った阿比留がスマホを取り出し、メールをチェックしようとしたとき、後方で「ドスン!」という大きな音とほぼ同時に、「ガチャーン!」と派手にグラスが割れる音がした。
「社長! すみません!」
橋本が謝る声を聞いた辻村が、スーツの上着とズボンだけを脱いだ姿で戻ってきた。阿比留も橋本の方を振り返った。
「あちゃ~、お前派手にやっちゃったね~。『うちのフローリングは滑るから気をつけろ』って言うの忘れてたな~。このワイングラス、びっくりするくらい高いんだぞ~。まぁ仕方ない。あそこに箒と塵取りがあるから、片づけといてくれ」
「すみません。グラスは弁償させてください」
「ばか。いいよ。気にするな。高いってのは冗談だよ」
「それにしてもお前、間抜けな格好だな」
阿比留に言われて、辻村はすぐに奥の部屋へ戻っていった。
「俺も手伝うよ」
阿比留は、辻村が箒と塵取りがあると言って指さした方へ動きだそうとしたが、
「いいえ。自分がやったことですし、どこに破片が飛んだのかわからないですから危ないです。自分にまかせて市長は座っていてください」
橋本に止められたため阿比留はソファに戻った。橋本は、箒と塵取りを持ってきて破片を片づけた。橋本が片づけ終わると、着替え終わった辻村がハンドクリーナーを持って戻って来た。
「おい、これ使え。うちの通販で売れ筋ナンバーワンだ。すごい勢いで何でも吸い込むぞ。どうだ阿比留、うちに10個あるから、ひとつ持って帰るか?」
持ってきたハンドクリーナーを橋本に渡すと、奥を指さしながら阿比留に言った。
「いらないよ。荷物になるだけだ。それにしてもグレーのスウェットの上下とは、お前らしくない格好だなー」
「そうか。家ではいつもこんな格好だぞ」
「へぇ~、そうなのか」
「良かったらお前も着るか? 持ってこようか?」
「いやいや俺はいい。お前のだと思うとリラックスできなくなるわ」
「そんな~、本当は着たいくせに~」
「いいよ。とにかく早くワインを飲ませろよ」
「わかった。わかった。代わりのグラス持ってくるから」
そういうと辻村は、食器棚から別のワイングラスを取ってきて、阿比留の向かい側のソファに座った。ハンドクリーナーで小さいガラスの破片を掃除していた橋本も阿比留の隣に座った。
「橋本、開けてくれ」
辻村に言われた橋本が、テーブルに置いてあったワインオープナーでワインを開ける。橋本がワインを開ける間に辻村が阿比留に向かってうんちくを傾け始めた。
「このワインはブルゴーニュなんだけど、このグラスはボルドー型なんだよな~。橋本が割っちゃったグラスはブルゴーニュ型で下のボウルの部分がより丸みがあってピノ・ノワールから造られる芳醇な香りを……」
「あー、うるさい!」
「えっ?」
「お前、ワインのうんちくを傾けるのは、女を口説くときだけにしろ! とにかく早く飲ませろ」
阿比留に言われた辻村は、シュンとなった素振りを見せたが、すぐに橋本にワインを注ぐよう手で合図した。
ワイングラスにワインを注ぎ終わると、辻村がグラスを持って、乾杯の音頭を取る。
「ようこそ。わが家へ。乾杯!」
「乾杯!」
阿比留と橋本が辻村のグラスに自分のグラスを当てる。そして互いのグラスもカチンと当てると阿比留が口を開く。
「お前、ウソンくんの事故で落ち込んでるって話だったのに、全然、元気そうだな」
実際、阿比留は、辻村の部屋に入って以来、辻村が落ち込んでいる様子を全く感じていなかった。
「愛する阿比留が家に来てくれてるのに、落ち込んでるとこ見せられないだろ~。俺、ちょっと肉焼いてくるから」
辻村はそう言うと、キッチンへ行ってフライパンを取り出した。
「このフライパンもうちで扱ってるやつなんだけど、阿比留、1個持ってくか?」
「だからいらないって。荷物になるだろ。フライパンなんて」
「橋本はどうだ?」
「大丈夫です」
その後、辻村が慣れた手つきで肉を焼き、テーブルへ運んできた。辻村が肉をテーブルへ置くとき、阿比留はウソンの事故のことを聞こうとしたが、辻村が聞かれたくない素振りを見せたため、「こいつもやはり落ち込んでるんだな……」と感じ、ウソンの事故には触れないでおくことにした。
オードブルや肉を食べながら、2時間ほどで2本のワインを空にした。辻村は、ワインを2杯飲んだが、橋本が注いだ3杯目はほとんど口をつけなかった。阿比留がもっと飲むよう促すと、「俺は肝臓が強くないから」と辻村は言う。3人の会話は、もっぱら国境リーグのことであった。辻村は、阿比留が理事長に転身するべきだと、切々と訴え、橋本も同調した。だが、「お前が市長をやれ」という言葉に対しては、橋本はきっぱりと「やりません」と断った。
阿比留はかなり酔っぱらっていた。リビングの時計が午後9時半を回ったころ、2度目のトイレに立った。トイレから戻ってきた阿比留は、スーツの上着を着て、
「そろそろホテルに帰ろうか」と橋本に言った。
「えーっ、泊まってけよー」
そういう辻村の言葉を無視して、ソファの横に置いた鞄を持った瞬間、阿比留の手に激痛が走った。
「痛っ!」
阿比留がすぐに鞄を離して手の平を見ると、ガラスの破片が刺さって手の指が切れ、出血していた。
「おい大丈夫か?」
辻村が心配そうに手の平を見る。橋本は阿比留の鞄の持ち手を調べ始めた。
「市長、ごめんなさい。市長の鞄の持ち手部分にガラスが突き刺さっていました。自分がちゃんと調べれば良かったんですが……」
阿比留の鞄の持ち手部分にはゴム性のカバーがあり、そのゴムの部分に割れたワイングラスの破片が刺さっていたようである。辻村は消毒液と絆創膏を持ってきた。
「阿比留、これで消毒して絆創膏貼っておくからな」
阿比留は切れた右手を辻村に差し出し手当てを受けた。
「怪我しちゃったことだし、泊まっていけよー。阿比留~」
そういう辻村を振り切って、阿比留は橋本とともに辻村のマンションを後にしてホテルへ向かった。

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