昭和の怪物、江川卓の軌跡
「昭和の怪物」江川卓。その名は、日本の野球史に圧倒的な記録とともに刻まれています。もともと「怪物」といえば江川卓でした。90年代の終わりに「平成の怪物」松坂大輔が登場したことにより、「昭和の」という言葉がつくようになったのだと思います。松坂大輔と比較しても江川卓が高校時代に放った閃光は引けをとりません。ストレートの質だけを比べれば江川のそれは松坂を上回っていたと思います。高校野球の常識を根底から覆した剛腕は、甲子園で数々の伝説を打ち立て、日本中を熱狂の渦に巻き込みました。しかし、栄光の頂点に立つはずだった最後の夏は、雨と死闘の末にあまりにも劇的な幕切れを迎えます。やがてその野球人生は、プロ入団を巡る球史に残る大騒動、そして逆風の中で実力を証明し続けた巨人のエースとしての栄光、さらには自らの美学を貫いた早すぎる引退へと、常に時代の注目を集めながら続いていきました。この記事では「昭和の怪物」江川卓投手がいかに凄いピッチャーだったのか、高校時代を中心に深掘りしていきます。
伝説の始まり ~中学時代と作新学院入学~
甲子園という全国の舞台で「江川卓」という名が日本中に響きわたる以前から、彼の伝説は、故郷の川辺や土埃の舞うグラウンドで静かに、しかし確実に形作られていました。後に日本野球界を歓喜と論争の渦に巻き込む「怪物」は、中学時代にその才能の片鱗を現し、高校入学は、彼の最初の分岐点でした。
川遊びが可能にした突然のフォーム変更
江川卓の投手としての原点には、指導者によって作られた「正統」とは異なります。極めて自然発生的なフォームが存在します。アクシデントから生まれた必然の産物でした。中学時代の県大会の試合中、江川は肩に痛みを感じ、それまでのオーバースローで腕を上げることができなくなりました。窮地に立たされた彼は、咄嗟に腕を横から振る投法に切り替えてみました。すると驚くべきことに、その方が楽に投げられるだけでなく、打者からは次々と三振を奪うことができたのです。この即興のフォーム変更を可能にした背景には、幼少期からの経験があります。静岡県に住んでいた小学生の頃、近所を流れる天竜川で頻繁に「水切り」をしていました。石を水面で何度も跳ねさせるこの遊びは、低いリリースポイントから手首をしなやかに使い、鋭い回転をかけた物体を投射する感覚を、無意識のうちに彼の体に深く刻み込んでいたのです。肩の痛みという予期せぬ事態に直面した時、彼は指導者の教えではなく、遊びの中で培われた身体の記憶を呼び覚まし、即座に解決策を見出したといえます。このエピソードは、江川の才能が単なる身体能力の高さだけでなく、驚異的な適応能力と、状況を打開する本能的な野球センスを備えていたことを示しています。コーチから与えられた型にはまるのではなく、自らの身体と対話し、最適な答えを導き出す能力。それは、後に彼が「怪物」と呼ばれるようになる重要な素養の1つといえるでしょう。
作新学院への進路変更
中学時代に軟式野球で県大会を制し、すでにノーヒットノーランを達成していた江川卓は、関東一円の野球強豪校による熾烈な争奪戦の的となっていました。特に東京の日大三高などは熱心に勧誘を行っていたといいます。当時、地元である栃木の関係者の間では、「江川は地元の進学校の小山高校に進む」というのが半ば公然の事実として語られていたそうです。この噂は絶大な影響力を持っていました。後に作新学院で江川とバッテリーを組むことになる大橋康延は、「江川が小山高に行くなら、俺が作新でエースになれる」と考え、作新学院への進学を決めたほどでした。しかし、1971年の春、小山高校に進むと信じていた江川卓が作新学院の入学式に現れたのです。同級生となった大橋は「なんで江川がいるんだ?」とわが目を疑ったといいます。この進路変更の裏には、目先の野球の強さだけを追わない、江川自身の明確な人生設計がありました。作新学院への進学を勧めたのは父親で、決め手になったのは同校に設けられていた「特別進学クラス」の存在でした。江川自身も、かねてより東京六大学野球の「早慶戦」のマウンドに立つという大きな夢を抱いており、そのためには高い学力が不可欠だと考えていました。彼の学力が本物であったことは、入学前のクラス分けテストで学年1位の成績を収めたことからも証明されています。この進路選択は、江川卓という人物の多面性を浮き彫りにしています。彼は単なる野球少年ではなく、自らの将来を見据え、その実現のために最適な道筋を冷静に判断する戦略家でもありました。最も安易な野球エリートの道を選ばず、学業との両立という困難な道を選んだこの決断は、後にドラフト制度という巨大なシステムと対峙することになる彼の、妥協を許さない強い意志の表れでもありました。
怪物降臨
江川が入学してすぐに作新学院が甲子園に出場したのかといえば、そうではありません。1年生のときの夏の選手権栃木県予選では準々決勝では完全試合を達成していますが、延長となった準決勝で降板後に後続の投手が打たれて敗戦。秋季大会では関東大会まで進むも1回戦で頭部にデッドボールを受け意識を失うというアクシデントに見舞われ、後続の投手が打たれて敗退しました。2年生の夏の選手権栃木県予選では3試合でノーヒット・ノーランを記録する(うち1試合は完全試合)も準決勝で延長11回にサヨナラスクイズを決められて敗退。そして秋季大会では関東大会に進み、見事優勝して翌年春のセンバツ大会出場を勝ち取りました。
衝撃の甲子園デビュー
いかに江川がすごいピッチャーでも野球は団体競技。江川が初めて甲子園のマウンドに立ったのは最終学年である1973年春のセンバツ大会でした。ついに聖地に姿を現した江川卓。その投球は、全国の高校野球ファンに衝撃を与え、数々の伝説を生み出しました。「江川のための大会」とまで言われた第45回センバツ大会。その幕開けは、開会式直後の第1試合でした。対戦相手は、出場校中トップのチーム打率を誇る大阪の強豪・北陽高校。試合前、ブルペンで江川がウォーミングアップの第一球を投じただけで、静まり返っていた甲子園全体から「うわーっ」というどよめきが起こったといいます。間違いなくその剛腕は本物でした。江川は強打の北陽打線をねじ伏せ、19個の三振を奪う圧巻の投球で完封勝利を飾ります。甲子園デビューは、まさに「怪物伝説」の第1章とよぶにふさわしいものでした。続く2回戦の小倉南、準々決勝の今治西も危なげなく完封勝利を収め、準決勝へ進出。準々決勝では20奪三振を記録しました。ここまで来ると作新学院の優勝は確実と見られましたが、その道のりを阻んだのは、名将が練りに練った緻密な戦略でした。
緻密な野球の前に屈した広島商との準決勝
準決勝で作新学院の前に立ちはだかったのは、試合巧者の広島商業でした。広島商を率いる名将・迫田穆成監督は「打倒・江川」を目標に掲げ、徹底的に研究を重ねていました。「ストライクゾーンの上半分は捨てて、5回までに100球投げさせろ」という具体的な指示のもと、選手たちは怪物攻略の術を叩き込まれていたのです。一方の江川は、万全の状態ではありませんでした。試合前に報道陣から逃れるように部屋で休んでいた際に首を寝違えるというアクシデントに見舞われ、得意の速球の威力は影をひそめていました。アクシデントの影響は制球にも及び、この試合では8つもの四球を与えています。試合は5回、作新学院が1点を先制するも、その裏、広島商はヒットで同点に追いつきます。この1点で、江川の地方大会から続いていた連続無失点記録は139イニングで途絶えました。そして1-1で迎えた8回裏、広島商は2死1、2塁のチャンスを迎えます。ここで2塁走者の金光興二が「ヒットは期待できない。走らせてくれ」とベンチに進言し、ダブルスチールを敢行。これに焦った作新学院の捕手が悪送球し、三塁走者が生還。これが決勝点となりました。江川は許したヒットわずか2本ながら、緻密な戦略の前に1-2で敗れ去りました。
全国制覇の夢は絶たれたものの、江川が甲子園に残したインパクトは絶大でした。4試合で積み上げた奪三振は「60」。これは43年ぶりに大会記録を塗り替えるものであり、半世紀以上が経過した現在でも破られていない不滅の金字塔です。
栄光と挫折が交錯した最後の夏
強烈な印象を残した春のセンバツ大会で江川卓という名前は、高校野球ファンの域を超えてほとんどの国民が知ることとなりました。そして迎えた1973年夏の選手権。それは、高校球児としての江川卓の総決算であり、真紅の優勝旗を手にする栄光を勝ち取る大会となるはずでした。しかし、甲子園で彼を待っていたのは、怪物攻略に心血を注いだ柳川商、銚子商との戦いでした。日本中の野球ファンが固唾を飲んで見守ったこの伝説的な2試合で、人々は彼の力の絶対的な頂点と、ワンマンチームであるがゆえの悲劇的な限界の両方を目撃することになりました。その結末は、高校野球の歴史に刻まれる、最もドラマチックで忘れがたい瞬間の1つとなったのです。
延長15回、柳川商との激闘
江川卓最後の夏の甲子園、初戦の相手は福岡代表の柳川商業(現・柳川高校)でした。彼らは「怪物」の名に臆することなく、むしろ「江川と戦いたい」と公言し、周到な対策を練って甲子園に乗り込んできました。柳川商が繰り出したのは、正攻法を捨てた奇策の数々でした。打者は、江川のリズムを乱すためにバントの構えから打ちにいく「バスター打法」を徹底。目的は長打ではなく、とにかくバットにボールを当て、守備を揺さぶることにありました。さらに作新学院の決して強力ではない攻撃力をさらに弱めるため、大胆なシフトを敷きました。9回裏1アウト満塁の場面で、センターを投手と3塁手の間に守らせ、内野手を5人にする奇策で作新学院を0点に抑えました。延長に入った12回裏、14回裏にも同様に内野手5人シフトによって0点に抑えています。試合は両チームの意地がぶつかり合う消耗戦となり、江川は柳川打線の粘りに苦しみながらも、延長15回を1人で投げ抜き、23個の三振を奪う力投を見せました。しかし、味方打線も柳川商業の術中にはまり、得点を奪えないという展開が続きましたが、3時間10分にも及ぶ死闘の末、延長15回裏、作新学院が辛くも2対1のサヨナラ勝ちを収めました。この試合で江川が投じた球数は、実に219球に達していました。この試合で柳川商が見せた戦術は、江川を打ち崩すことはできなくとも、江川のチームを倒すことは可能であるという1つの解答を示したといえます。江川本人を攻略するだけでなく、彼のチームの弱点を突き、彼1人に過剰な負担を強いることで勝機を見出すという戦術です。また、この試合で蓄積された219球分の疲労は、目に見えない時限爆弾のように、江川の右肩に重くのしかかっていたのも事実でした。
雨中の決戦、銚子商の執念と怪物の敗退
死闘から中2日。2回戦の相手は、千葉の強豪銚子商業でした。両者は関東の覇権を争う宿命のライバルでした。前年秋の関東大会で、江川は銚子商から23三振を奪い1安打完封勝利をおさめるなど、これまでの対戦では作新学院が圧倒していました 。しかし、その屈辱をバネに執念を燃やし続けてきた銚子商は、全く別のチームへと変貌を遂げていました。
試合は、銚子商の2年生エース・土屋正勝(後に中日入り)と江川による、息詰まる投手戦となりました。両チーム無得点のまま延長戦に突入。延長10回裏、銚子商はサヨナラの絶好機を迎えますが、本塁でのクロスプレーで作新学院の捕手小倉偉民が気迫のブロックを見せ、得点を許しませんでした。試合が進むにつれて、甲子園には雨が降り始め、延長に入る頃にはその勢いを増していました。そして運命の延長12回裏、雨はバケツをひっくり返したような土砂降りとなります。雨天は、指先の感覚を生命線とする江川にとって、かねてからの弱点でありました。降りしきる雨と柳川戦の疲労が、怪物の絶対的なコントロールを少しずつ、しかし確実に狂わせていきました。江川は四球とヒットで1死満塁のピンチを招きます。打席には2番長谷川泰之。カウントはフルカウント。絶体絶命の場面で、江川はタイムを要求し、内野陣をマウンドに集めました。そして、チームメイトにこう告げたといいます。「次の球は力いっぱいのストレートを投げたい」。するとチームメイトたちは「オマエのおかげで春も夏も(甲子園に)来られたんだ。最後は好きなようにしろ」。仲間のその言葉に、1人でチームを背負い続けてきた江川の肩の荷が、少しだけ下りたのかもしれません。そして投じられた169球目。渾身のストレートは、無情にも高々と外れました。押し出し四球。0対1。打者を打ち取ることなく、怪物の夏は終わりを告げました。それは、絶対的な力で相手をねじ伏せてきた江川にとって、あまりにも象徴的な幕切れでした。彼の無類の制球力が、ライバルの執念と非情な雨によって、最後の最後で失われたのです。この敗北は、無敵の「怪物」が、1人の高校球児へと戻った瞬間でもあり、その悲劇性ゆえに、江川卓の伝説をより一層、人々の記憶に深く刻み込むことになりました。
高校野球を席巻した圧巻の記録
作新学院のユニフォームに袖を通した江川卓は、まさしく「怪物」として高校野球界に君臨しました。その投球は、同世代の高校生たちを絶望させるほどの絶対的な力を持っていたと言えます。それは彼の残した記録の数々を見れば明白で、50年以上が経過した現代の野球の常識から見ても、にわには信じがたいものばかりです。高校3年間の公式戦で達成したノーヒットノーランは9回。そのうち2回は一人の走者も許さない完全試合でした。145イニング連続無失点、公式戦における36イニング連続無安打という記録は、打者がバットにボールを当てることすら、いかに至難の業であったかを物語っています。前述したように、江川卓という名は1973年の春、甲子園で全国区となりますが、その第45回選抜高等学校野球大会で、江川は1大会通算60奪三振という不滅の大記録を樹立しました。その剛腕を目の当たりにした者たちは、恐怖に近い衝撃を受けたといいます。後にプロ野球の世界で活躍する中尾孝義(元中日ほか)は、練習試合で対戦した際の江川の直球を「ドッジボールくらいの大きさに見えた」と語り、バットにかすらせることさえ至難だったと証言しています。同じく後にプロ野球選手となる達川光男(元広島)は、甲子園のブルペンで江川が投じたウォーミングアップの第1球だけで、静まり返っていた球場全体から「うわーっ」という、驚嘆とも悲鳴ともつかないどよめきが起こった光景を鮮明に記憶しているといいます。
怪物の伝説は、最後の夏に向けて最高潮に達します。1973年夏の栃木県予選。江川は5試合44イニングを投げて、3度のノーヒットノーランを達成。この間、許したヒットはわずかに2本、奪った三振は75、そして失点は0。まさに完璧な投球で、最後の甲子園への切符を手にしています。その圧倒的な存在感は、他校の指導者にも強烈な印象を与えました。後に「平成の怪物」松坂大輔を育てた横浜高校の名将・渡辺元智監督ですら、「高校時代の江川は別格。どちらが上かと問われれば江川」と断言しているほどです。投手としてだけでなく、1年生の時から竹バットで柵越えを連発するなど、打者としても規格外の能力を示していました。
| 記録名 | 内容 |
| 公式戦通算ノーヒットノーラン | 9回(うち完全試合2回) |
| 選抜大会一大会通算奪三振 | 60個(大会記録) |
| 連続無失点記録 | 145イニング |
| 連続無安打記録 | 36イニング |
| 1973年夏・栃木県予選成績 | 5試合 44回 被安打2 奪三振75 無失点 |
これらの数字は、江川卓が単なる好投手ではなく、高校野球の歴史において唯一無二の存在であったことを客観的に証明しています。それは、もはや記録ではなく、伝説そのものといえるでしょう。
「空白の一日」と巨人軍入団
高校野球史上最高の投手の1人であった江川卓が、幼い頃から憧れ続けた読売巨人軍のユニフォームに袖を通すまでの道のりは、まさにいばらの道でした。それは、ドラフト制度に阻まれ続けた夢は、世間を巻き込む大騒動へとつながり、日本プロ野球の根幹を揺るがした大胆な法的策略が渦巻きました。「空白の一日」事件として知られるこの一連の騒動は、単なるひとりの選手の入団問題に留まらず、日本社会全体を巻き込むスキャンダルへと発展しました。そして、彼の身代わりとして悲劇のヒーローを生み出し、日本プロ野球史における大事件として永遠に語り継がれることになりました。
2度のドラフト拒否と「約束されなかった」慶應進学
江川のプロ入りを巡る物語は、高校卒業時から始まっていました。1973年のドラフト会議で、彼はその年の最大の目玉でありながら「大学進学」を表明。しかし、阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)がこれを承知で1位指名に踏み切りました。しかし江川の意志は固く、憧れの「早慶戦」のマウンドに立つという夢を優先し、入団を拒否しました。しかし、その夢の舞台であった慶應義塾大学への進学は、思わぬ形で断たれます。江川側は、大学から合格の内諾を得ていると信じていましたが、結果はまさかの不合格。その裏では、大学側が学力試験の点数を上乗せする「下駄を履かせる」措置について、「裏口入学」との批判を恐れた教授陣からの反対があったと噂されました。約束を反故にされたと感じた経験は、江川にとって大きな挫折となり、後の彼の行動に決定的な影響を与えることになります。失意の江川は、最終的に法政大学へ進学しました。
法政大学で江川は東京六大学野球のスターとして君臨。リーグ史上2位となる通算47勝、歴代最多の17完封という金字塔を打ち立てました。そして4年後の1977年、2度目のドラフト会議を迎えます。彼の心は、相思相愛と信じていた読売ジャイアンツ入団で固まっていました。しかし、ドラフト1位で彼を指名したのは、クラウンライター・ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)でした。江川はこの指名を拒否 。プロ入りを1年見送る野球浪人の道を選び、翌年のドラフトで巨人入りを目指すため、アメリカへの野球留学を決意したのです。
この5年間の出来事は、江川の頑ななまでの巨人へのこだわりと、それを阻むドラフト制度との間の、埋めがたい溝を浮き彫りにしました。特に慶應義塾大学との一件は、彼に「既存のシステムは必ずしも自分を守ってくれない」という不信感を植え付けました。2度のドラフト拒否は、単なる我儘や傲慢と片付けられるものではなく、自らの運命を自らの手で切り拓こうとする、彼の強い意志の表れでした。そして、その強い意志が、前代未聞の事件の引き金となるのです。
「空白の一日」事件の真相と小林繁とのトレード
1978年11月21日。ドラフト会議の前日、日本プロ野球界は激震に見舞われました。アメリカから帰国した江川卓が、読売ジャイアンツと電撃的に入団契約を交わしたのです。巨人が突いたのは、野球協約の「盲点」でした。前年に江川を指名したクラウンライターの交渉権が11月20日をもって失効するため、ドラフト会議が開催される22日までのわずかな時間、すなわち11月21日は、江川がどの球団にも拘束されない自由な選手となる「空白の一日」であると独自に解釈したのです。この暴挙に対し、セントラル・リーグは即座に「契約は無効」との判断を下します。すると巨人は、翌日のドラフト会議をボイコットするという強硬手段で対抗。球界の盟主による前代未聞の行動は、ドラフト制度そのものの崩壊を招きかねない危機的状況を生みました。翌22日、巨人が欠席する中、11球団でドラフト会議は強行された。巨人の抜け駆けに抗議する形で、南海、近鉄、ロッテ、そして阪神タイガースの4球団が江川を1位指名。抽選の結果、阪神が交渉権を獲得しました。これに対し巨人は「全12球団が参加していないドラフトは無効」と主張し、リーグ脱退や新リーグ設立すらちらつかせ、徹底抗戦の構えを見せます。世論は江川と巨人に対し、激しいバッシングを浴びせたました。泥沼化した事態を収拾するため、当時の金子鋭コミッショナーが下した裁定は、法やルールを超えた「強い要望」という名の政治的決着でした。その内容は、①江川はまず、正当に交渉権を持つ阪神タイガースと入団契約を結ぶこと。②その後、即日、巨人のエースであった小林繁投手との交換トレードという形で、巨人に移籍させる。というものだったのです。この異例の裁定により、江川は念願の巨人入りを果たしました。しかしその代償はあまりにも大きいものでした。何も知らされずに宮崎キャンプへ向かう空港で呼び止められ、事実上の放出を告げられた小林繁は、悲劇のヒーローとして世間の同情を集めました。一方で江川は、球界のルールを捻じ曲げた「ヒール(悪役)」の烙印を押され、日本中を敵に回すことになりました。この事件は、1人の選手の夢を叶えるために、もう1人の選手と球界全体の秩序が犠牲にされた、日本プロ野球史の暗部として記憶されています。
プロ野球選手としての江川卓
入団を巡る大騒動の渦中で、日本中の敵意をその身に受けながら、江川卓はプロのマウンドに立ちました。彼は一般人が到底想像できない程の大きな重圧をその身に感じていたことでしょう。ですが彼は、その後の9年間という短くも鮮烈なキャリアを通じて、その実力がプロ野球選手としても超一流であることを証明してみせました。かつて高校野球界を席巻した「怪物」はやはり本物だったのです。彼は論争を実力で沈黙させ、巨人の揺るぎないエースとして1980年代のプロ野球界に君臨しました。そして最後は、いかにも彼らしい、あまりにも潔い突然の引退劇によって、そのキャリアに自ら幕を下ろしました。江川卓という怪物は、プロ野球の世界においても比類なき輝きを放ったのです。
巨人軍のエースとして君臨
江川卓のプロ野球人生は、皮肉にも因縁の相手である阪神タイガース戦で始まりました。1979年6月の初登板、彼は3本の本塁打を浴び、敗戦投手となるほろ苦いデビューを飾ります。しかし、デビュー戦こそほろ苦いものになったものの、怪物とよばれた投手はやはりプロ野球の世界でもその才能をいかんなく発揮しました。プロ3年目の1981年、江川はキャリアの絶頂期を迎えます。この年、彼は20勝を挙げ、最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封という、投手タイトルを総なめにする「投手5冠」の偉業を達成。シーズンMVPに選出され、チームを8年ぶりの日本一へと導きました。入団時の騒動を完全に払拭する、圧巻のパフォーマンスだったといえます。
プロ2年目から引退する年まで、8年連続で二桁勝利を記録する抜群の安定感でした。9年間の実働で積み上げた勝利は135、敗戦は72。通算勝率.652は、2000投球回以上という規定にわずかに満たないものの、歴代でも屈指の数字です。そのキャリアで獲得した主要タイトルは、MVP1回、最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回。オールスター戦での8人連続奪三振に象徴される、誰もが認める、セ・リーグを代表する大投手でした。
| 項目 | 成績 |
| 登板 | 266 |
| 勝利 | 135 |
| 敗戦 | 72 |
| セーブ | 3 |
| 勝率 | .652 |
| 防御率 | |
| 奪三振 | 1,366 |
| 主なタイトル | MVP (1回), 最多勝 (2回), 最優秀防御率 (1回), 最多奪三振 (3回) |
これらの数字は、江川卓がプロ野球の世界でも本物の「怪物」であったことを雄弁に物語っています。世間を巻き込んだ大事件の当事者であった男は、その右腕一本で、自らの価値を証明しきったのです。
32歳での早すぎる引退
1987年シーズン、江川は13勝5敗というエースとして十分な成績を残していました。しかし、シーズン終了後、彼は突如として現役引退を発表します。32歳という、投手として円熟期を迎える年齢での決断は、世間に大きな衝撃を与えました。引退の理由は、数字上の衰えではありませんでした。彼の身体を蝕んでいたのは、プロ入り4年目頃から感じ始めたという右肩の異変。かつて唸りを上げていたストレートは、次第にその輝きを失っていました。彼自身が納得するボールが、もう投げられなくなっていたのです。引退を決意させた決定的な瞬間は、1987年9月20日の広島東洋カープ戦。江川は、打者の小早川毅彦に対し、その日最高のストレートを投じました。しかし、小早川が放った打球は無情にもスタンドに吸い込まれていきました。その1球で、彼は自らの限界を悟りました 。「もう、自分の思うようなボールが投げられない」。彼の引退は、敗北からの逃避ではありませんでした。むしろ、それは究極のプライドの表れでした。凡庸な投手として長くプレーを続けるのではなく、最高の「江川卓」でいられなくなった瞬間に、自らユニフォームを脱いだのです。その引き際の美学は、騒動を乗り越え、自らの意志で巨人軍のエースの座を掴み取った男の、最後の、そして最大級の自己表現だったのかもしれません。彼のキャリアは、始まりから終わりまで、常に彼自身の高い理想と、妥協を許さない美意識によって貫かれていました。
まとめ
江川卓投手が巨人のエースとして活躍していた全盛期の頃、自分は中学生でした。当時はもうスピードガン表示が中継でも出てきていて、9回になっても150㎞の速球を投げているところを見て「バケモノだな」と思っていました。ストレートとカーブだけで相手を押さえ込めるんですから、キャッチャーは楽だったでしょうね。ただ、記録として見た場合、江川卓という投手は、プロ野球の世界で「超」がつく一流選手ではないでしょう。200勝に達していませんから。しかし、人々の記憶という点で考えれば歴代No.1ピッチャーに江川卓の名前を挙げる人は多いかもしれません。野球中継の解説者として一定の地位を築いてはいますが、入団時のゴタゴタが影響しているのか、引退後に指導者としてユニフォームを着ることがなかったことは少し残念です。

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