炎天下の死闘! 延長25回、中京商対明石中が刻んだ高校野球史の頂点
1933年(昭和8年)8月19日、甲子園球場。夏の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)の準決勝は、野球というスポーツの限界、人間の精神力と肉体の極限を試す、空前絶後の舞台となりました。王者・中京商業学校と、その最大のライバル・明石中学校が対峙したこの一戦は、延長25回、4時間55分にも及ぶ死闘として、日本の野球史に不滅の金字塔を打ち立てました。この試合は単なる長時間の試合ではありません。そこには、歴史的偉業への執念、ライバルへの雪辱の誓い、エースの不調という知られざるドラマ、そして戦争という時代の大きな影が落とした、選手たちのその後の対照的な人生がありました。本記事では、この伝説の一戦を、試合に至るまでの背景、息詰まる試合展開、そして両校のエースが辿った運命という3つの視点から、深く掘り下げていきます。
準決勝までの両校の勝ち上がり
この準決勝は、単なるトーナメントの一試合ではありませんでした。それは、時代の覇権を争う二大巨頭の激突であり、事実上の決勝戦と目されていました。片や前人未到の3連覇を目指す絶対王者、片や悲願の打倒・中京商に燃える最強の挑戦者。両校が準決勝の舞台にたどり着くまでの道のりは、その対決が必然であったことを物語っています。
前人未到の3連覇へ、王者・中京商の道程
1933年夏の中京商業は、単なる強豪校ではありませんでした。前年の1932年(昭和7年)に夏春連覇を成し遂げ、この大会では甲子園史上、後にも先にも例のない「夏の選手権3連覇」という偉業に挑んでいたのです。その中心にいたのが、絶対的エースの吉田正男投手でした。吉田は3年生だった1931年(昭和6年)からチームを夏の全国制覇に導き、この時点ですでに2度の優勝を経験。6季連続で甲子園の土を踏み、甲子園通算勝利数は史上最多の23勝を数える、まさに「勝つために生まれてきた投手」でした。チームには、亡き校長に3連覇を捧げるという強い動機もありました。吉田とバッテリーを組む捕手の野口明(後のプロ野球監督)も健在で、チームの完成度は極めて高いものでした。その勝ち上がりは、王者の名に恥じない圧倒的なものでした。1回戦:善隣商業(朝鮮)を11-0で一蹴。2回戦:強豪・浪華商業(大阪)との接戦を3-2で制すと、準々決勝では後の大スター、藤村富美男を擁する大正中学(広島)を2-0で完封。大勝だけでなく、接戦をものにする勝負強さも兼ね備え、盤石の体制で準決勝へと駒を進めてきたのです。彼らの視線の先には、歴史的偉業の達成しかありませんでした。
◆中京商業の勝ち上がり◆
| 試合 | 対戦相手 | スコア |
|---|---|---|
| 1回戦 | 善隣商 | 11 – 0 |
| 2回戦 | 浪華商 | 3 – 2 |
| 準々決勝 | 大正中 | 2 – 0 |
剛腕・楠本を擁する雪辱の雄、明石中学の挑戦
中京商の対抗馬として、誰もがその名を挙げたのが兵庫の明石中学でした。当時の中等野球界は中京商、松山商、そして明石中が「ビッグ3」と称され、人気を三分していました 9。その中でも明石中を象徴する存在が、剛腕投手・楠本保でした。楠本の人気は凄まじく、宿舎にファンが殺到し、球場入りする際には人垣をかき分けなければならないほどだったといいます 9。前年の大会では初戦でノーヒットノーランを達成するなど、その実力は折り紙付きでした 9。しかし、この最強の挑戦者には、外部には知られていない重大な秘密がありました。絶対的エースである楠本が、深刻な体調不良に陥っていたのです。脚気の兆候に加え、脇の下の汗疹(あせも)が化膿して出血するなど、そのコンディションは最悪の状態でした 4。準々決勝の横浜商業戦を投げ終えた後は、疲労困憊で口もきけないほどだったと伝えられています 4。この危機的状況が、もう一人の天才投手を歴史の表舞台に押し上げることになります。控え投手の中田武雄です。中田は小学校時代に全国優勝投手となった逸材でしたが、1学年上の楠本の存在が偉大すぎたため、中学では主に中堅手としてプレーしていました 10。しかし、楠本の不調を機に登板機会が増え、その実力はチーム内で高く評価されていました 2。この「エースの不調」というアクシデントは、結果的に明石中にとって最大の武器となりました。中京商が「打倒・楠本」を掲げ、剛速球対策に明け暮れていることを知っていた明石中ベンチは、意表を突く中田の先発を決断します 2。それは、王者の周到な準備を根底から覆す、一世一代の奇襲作戦でした。明石中もまた、圧倒的な力で準決勝まで勝ち上がっていました。
◆明石中の勝ち上がり◆
| 試合 | 対戦相手 | スコア |
|---|---|---|
| 1回戦 | 慶応商工 | 6 – 0 |
| 2回戦 | 水戸商 | 10 – 0 |
| 準々決勝 | 横浜商 | 4 – 0 |
試合経過と打点なしの決着
午後1時10分、試合開始。甲子園の熱気と蝉時雨の中、球史に刻まれる伝説の幕が上がりました。それは、両投手の驚異的な粘投、両チームの執念、そして最後に訪れるあまりにも残酷な結末へと続く、長い長い物語の始まりでした。
意表を突く中田の先発と序盤の息詰まる投手戦
スターティングメンバーが発表された瞬間、甲子園はどよめきに包まれました。明石中のマウンドに上がるのは、剛腕・楠本ではなく、背番号1をつけた左腕・中田武雄。そして楠本は「3番・ライト」での出場でした。楠本が甲子園で先発を譲ったことは一度もなく、この采配は観衆だけでなく、何よりも「打倒・楠本」に燃えていた中京商ナインに衝撃を与えました。試合は、この奇襲作戦がもたらした心理的動揺を映すかのように、序盤から息詰まる投手戦となります。中京商の吉田はいつも通りの力強い速球で明石打線をねじ伏せ、一方の中田は、楠本とは対照的な軟投派の技巧で、強力中京打線を手玉に取りました。両チームともに3塁を踏むことすらままならず、回は淡々と進んでいきます。9回表を終えた時点で、中京商の安打は0、明石中もわずか1本という、信じがたい内容でした。そして迎えた9回裏、試合は最初のクライマックスを迎えます。中京商は、この試合チーム初安打となる吉田の内野安打を足がかりに、相手のエラーも絡んで無死2、3塁という、一打サヨナラの絶好機を作ります。明石中ベンチは次打者を敬遠し、満塁策を選択。球場の誰もが、そしてマウンドの中田自身さえも「もう負けた」と覚悟しました。しかし、続く神谷の打球は痛烈なピッチャーライナーとなり、中田のグラブに吸い込まれます。飛び出していた三塁走者も戻れず、併殺。後続も倒れ、土壇場で絶体絶命のピンチを切り抜けた明石中。中田は後に「捕ったんじゃない。投げ終わったグラブにボールが勝手に入ってきた」と語ったといいます。試合は、この奇跡的なプレーによって、延長戦という未知の領域へと突入しました。
延長戦の死闘と重なる好機と凡退
延長戦に入ると、試合は壮絶な消耗戦の様相を呈します。両チームともに好機を作りながら、あと1本が出ない展開が延々と続きました。明石中は15回表、2死から満塁のチャンスを作ります。打席には主砲・楠本。球場が固唾を呑んで見守る中、中京商・吉田は楠本が高めに弱いという弱点を見抜き、高めの速球で三振に仕留め、最大のピンチを脱します。21回表にも無死2塁の好機を得ますが、吉田の好フィールディングに阻まれ、得点できません。一方の中京商も、再三にわたってサヨナラの好機を迎えました。21回、22回、23回、24回と、毎イニングのように走者を得点圏に進めますが、中田の驚異的な粘りの前に、ことごとくあと1本が出ません。23回裏には2死満塁と攻め立てましたが、ここも後続が三振に倒れました。試合が3時間を超える頃には、選手たちの疲労は極限に達していました。吉田は「20回を過ぎると疲れから投球は惰性になった」と述懐しています。あれほど沸き返っていた観客席も、いつしか静まり返り、ただ固唾をのんで試合の行方を見守るだけとなっていました。この前代未聞の試合は、当時の野球界の常識をも超えていました。試合前の食事に関して、中京商がカツカレーでスタミナをつけ、試合中もレモンをかじって栄養補給するという、当時としては極めて合理的な準備をしていたのに対し、明石中は伝統的な考えから消化の良い重湯しか口にしておらず、選手たちは空腹とも戦っていました。球場の竹製スコアボードは16回までしかなく、17回以降は「0」の札が尽きてしまい、係員がペンキで急遽書き足して対応したという逸話も残っています。ついには大会本部も動き、25回に入る直前、「この回で決着がつかなければ引き分け再試合とする」という通達が両チームと審判団に伝えられました。主審の水上氏も「25回で終わらなければ引き分けを宣告しようと決心していた」と語っており、試合はついに時間的にも追い詰められたのです 。
延長25回裏、一瞬の隙が生んだ幕切れ
午後6時5分、甲子園には夕闇が迫っていました。25回表、明石中の攻撃は三者凡退に終わり、ついに最後の攻撃となる25回裏が訪れます。マウンドに立つ中田の疲労は、もはや隠しようがありませんでした。先頭打者の前田に四球を与えてしまいます。続く野口の送りバントは、投手の中田と3塁手の永尾がお見合いする形となり内野安打に。さらに続く鬼頭のバント処理でも、3塁封殺を狙った中田の送球が間に合わず、フィルダースチョイスとなって無死満塁。絶体絶命、3度目となるサヨナラのチャンスが中京商に巡ってきます。明石中の内野陣は、本塁封殺に備えて前進守備を敷きます。打席には1番の大野木。2ストライクと追い込まれてから放った打球は、力のないセカンドゴロでした。2塁手の嘉藤栄吉がこれを捕球。しかしその瞬間、3塁走者の前田がすでに本塁間近に迫っているのが目に入りました。「間に合わないかもしれない」。その一瞬の焦りが、嘉藤のプレーを狂わせます。ボールをしっかりと握り直す余裕がなく、慌てて本塁へ送球。タイミングはアウトでしたが、その送球は無情にも高く逸れ、捕手・福島の頭上を越えていきました。前田がヘッドスライディングで生還。4時間55分に及んだ死闘は、ヒーローの一打ではなく、1人の選手のエラーによって、あまりにもあっけない幕切れを迎えました。記録は2塁手・嘉藤のエラー。サヨナラ打点はつきませんでした。その瞬間、サヨナラ勝ちに沸く中京商ナインの歓喜の輪の傍らで、嘉藤はグラウンドに崩れ落ち、膝が震えて立ち上がることができなかったといいます。そして、剛腕・楠本保は、ついにこの試合、1度もマウンドに上がることなく、甲子園を去りました 。

中京商吉田、明石中学中田、楠本のその後
この伝説の一戦は、選手たちのその後の人生にも大きな影響を与えました。勝者として歴史に名を刻み、野球界の重鎮となった者。そして、敗者としてグラウンドを去り、志半ばで戦火に散った者。中京商吉田投手と明石中の2人の投手が辿った道は、あまりにも対照的でした。
甲子園の伝説からアマチュア野球の重鎮へ
吉田正男の歩んだ道延長25回、336球を投げ抜いた吉田正男の伝説は、まだ終わりませんでした。信じがたいことに、吉田はその翌日の決勝戦でも先発マウンドに上がります。対戦相手は古豪・平安中学(京都)。吉田は後年、「肩の感覚がなく、捕手のミットめがけて機械的に投げるだけだった」と語っていますが、それでも1失点完投勝利を収め、中京商業を2-1の勝利に導きました。こうして、甲子園史上唯一となる夏の選手権3連覇の偉業が達成されたのです。吉田の野球人生は、その後も輝かしいものでした。明治大学に進学すると、肩の故障から外野手に転向しますが、東京六大学リーグ史上初の4連覇に貢献。大学卒業後はプロからの誘いもありましたが、当時のプロ野球選手の社会的地位の低さを懸念した婚約者の父の意向を汲み、アマチュア野球の道を選びます。社会人野球の藤倉電線では投手に復帰し、1939年(昭和14年)の都市対抗野球大会でチームを優勝に導き、自らも橋戸賞(MVP)を受賞。アマチュア野球の頂点を極めました。引退後は中日新聞の記者としてアマチュア野球評論家の道を歩み、1992年(平成4年)にはその功績が認められ、野球殿堂入りを果たすなど、その深い知見で球界に貢献し続けました。そして、1996年(平成8年)、82歳でその生涯を閉じました。甲子園の英雄は、野球人として満ち足りた人生を全うしたのです。
戦火に散った2人の好投手、中田武雄と楠本保の短き生涯
吉田が歩んだ輝かしい道のりとは対照的に、死闘を演じた明石中の2人の天才、中田武雄と楠本保の運命は、時代の大きな渦に飲み込まれていきました。彼らの人生は、驚くほど多くの点で交錯していました。明石中学のチームメイトであった2人は、卒業後、ともに慶應義塾大学に進学し、再びチームメイトとなります。大学卒業後もその縁は続き、2人揃って台湾・高雄の貿易会社に就職しました。ライバルであり、親友でもあった2人の人生は、まるで合わせ鏡のようでした。しかし、その運命の糸は、戦争によって無残に断ち切られます。2人とも陸軍に応召され、戦地へと送られました。そして、野球の神様はあまりにも残酷な偶然を用意していました。1943年(昭和18年)7月22日、中田武雄は南方戦線で戦死。そして、その翌日、楠本保もまた、中国戦線で銃弾に倒れ、帰らぬ人となったのです。享年28歳。あの夏、甲子園のマウンドで死力を尽くして投げた中田投手と、その準決勝のマウンドに立つことがかなわなかった楠本投手。明石中の2人の好投手は、まるで示し合わせたかのように、相次いでその短い生涯を閉じました。彼らの才能が戦後のプロ野球で花開くことはありませんでしたが、現在、2人の名前は、野球殿堂博物館にある戦没野球人のモニュメントに刻まれ、その悲劇的な運命を静かに伝えています。
1933年夏の一戦は、単なる記録に残る試合ではありません。それは、勝者の栄光と敗者の悲哀、極限状況での人間の強さと弱さ、そして平和な時代に野球ができることの尊さを、私たちに教えてくれる、永遠の物語なのです。明石高校の敷地内には、この試合の健闘を讃える記念碑が今も建てられており、この死闘が地域にとっても誇り高い歴史であることが示されています。この試合が語り継がれる限り、吉田、中田、そして楠本という3人の偉大な投手の名は、日本の野球史の中で永遠に輝き続けることでしょう。
まとめ
小学生のときにこの試合のことが書かれた本を読みました。その本に17回以降のスコアを示す簡易的なスコアボードの写真が掲載してありましたが、この試合は選手たちはもちろんのこと、携わった人々にとっても大変な試合だったことがうかがえます。その1人がラジオ中継のアナウンサーだった高野国本さんです。ほぼ5時間というこの激闘を1人で伝えきったのですから本当にすごいアナウンサー魂ですよね。途中で交代を打診されても「選手たちが頑張っているのに交代なんか出来ない」と断ったそうです。正直、トイレはどうしたのかなと思いますが、そんなことはかき消されてしまうほど実況に集中していたのかもしれません。この試合は、甲子園史上、唯一の延長25回の激闘ですが、選手たちのその後やこの試合に携わった人すべてに物語がある究極のスポーツエンターテイメントでもあったのだと思います。

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