15
4月のゴールデンウィークが終わった直後、対馬市役所の市長室で執務にあたっていた阿比留のもとへ、松尾が飛び込んできた。秘書の橋本も通さずに直接市長室へ入ってきた。「おい、大変なことになったぞ」
松尾は息を切らしている。
「先輩、どうしたんですか? そんなに慌てて」
「ついさっき酒井さんから電話があったんだ。ワイルドキャッツの厳原事務局に」
松尾の顔は青ざめていた。
「酒井さんって……。プライムの酒井さんですか?」
「そうだよ。リーグ最大のスポンサーの酒井さんだ」
「その酒井さんが何て?」
「いいか啓、落ち着いて聞けよ。酒井さんが言うには『残りの40億円の出資はできない』そうだ」
「えっ、そんな馬鹿な……。だって球場が完成したら残りの40億円を提供するという約束になっていたじゃないですか……」
阿比留の顔も段々と青ざめてきた。
「確かにな……。でもな、契約書には、経済状況の変化に応じて、提供する資金の金額は最大80%まで減額できることになっているんだ」
「そうでした。契約書のその条項については僕も不安があったんで、チェ社長に『大丈夫でしょうか?』って相談したんですが、チェ社長は『日本のパチンコ業界は不況に強いですから大丈夫ですよ。万が一、資金不足になったら私も手伝いますから』って言われて、僕も納得したんですよ」
「そうだったのか……」
「とにかく私から酒井さんに電話してみます」
「そうか、そうしてくれ」
そういうと阿比留は自分の携帯電話のアドレス帳からプライムの番号を探し出して電話をかけた。しかし酒井は不在で、現在、連絡を取ることはできないと言われてしまう。
阿比留が苦悶に満ちた表情で携帯を置くと、松尾が言った。
「啓、まずはチェ社長にこの事態を報告して、チェ社長の資金提供を含めて打開策を練ろうじゃないか」
「そうですね。まずはチェ社長に連絡しましょう」
その後、阿比留は市役所の通訳を通じて、チェ社長の携帯に電話したが、つながらなかった。会社にも電話したが不在だったため、緊急事態であることを告げ、至急連絡をくれるよう頼んだ。
阿比留に連絡があったのは翌日だった。チェ社長からではなくパク市長だった。至急、電話口に通訳を呼び、会話を始めた。
「阿比留さん、聞きました。大変なことになりましたね」
「そうなんです。だから至急チェ社長とお会いしたいんですが……」
「わかりました。明日、ワイルドキャッツの緊急理事会を開いてください。厳原事務局までプサン側からチェさんを含めて理事を連れて行きますから」
「そうですか。ありがとうございます。時間は何時にしますか?」
「午後3時でお願いします」
「わかりました。こちらの理事には全員私から伝えておきます」
「それでは明日、午後3時に」
資金提供がストップするという非常事態にしてはパク市長の声は落ち着いていた。軍出身で常に尊大な態度のパク市長だが、そのことを差し引いても阿比留には違和感があった。暗い闇に引きずり込まれるような不安が阿比留の心に忍び寄っていた。
翌日、東京から三島が対馬へやって来て、対馬側の理事がそろった。三島を含む対馬側の理事と阿比留が待つティアラ内にある会議室へ、プサン側の理事とパク市長が到着したのは、午後3時ちょうどである。対馬側は市役所の通訳を同席させていたが、プサン側も通訳を連れてきていた。
全員が着席すると、松尾が話しだした。
「先だって報告しましたが、国境リーグの最大の資金提供者であるプライムの酒井社長から、残りの40億円は提供できないという連絡がありました。これに関して、契約上は問題がありません。つきましては、今後、どうやって国境リーグを運営していくか、本日、緊急理事会を開いて、決めていきたいと考えております」
松尾の話が終わると、プサン側の理事のひとりが手を挙げた。松尾が発言を許可した。
「資金提供がなくなるのであれば、今後どうやって運営していくかではなくて、国境リーグ自体を白紙にしなければならないと思います」
通訳の言葉を聞いた阿比留が顔を真っ赤にして言った。
「白紙にすることなどできるわけない!」
「あなたと私は理事ではない。発言するのはお止めなさい」
パク市長が威圧的に阿比留をとがめた。
「白紙にすることはできないでしょう。選手選考も終わって、選手たちは合同練習に入っている。それにワイルドキャッツは対馬市から清水が丘の土地を5億円で購入して、すでに球場建設に取りかかっているんです。白紙ではなく、資金をどうやって捻出するか議論するべきではないんですか」
松尾が平静を装いながら話した。するとチェ社長が口を開いた。
「清水が丘の土地は、私が10億円で買い取りましょう。私が出せる金額はそれだけです。それ以上は出せない。そうなると、実際にリーグを運営していくことは困難になる。仕方がないでしょう。独立リーグは白紙にするしかないですよ」
通訳の言葉を聞いた、厳原側の理事のひとりが怒りをあらわにしてチェ社長を睨みつけながら言った。
「あの土地は厳原の人たちにとって大事な土地なんだ。俺たちはあそこにあった中学校へ通って、あのグラウンドで走り回った。あの土地にはみんなの大事な思い出が詰まっているんだ。あんたなんかの手に渡してたまるか!」
「あの土地はすでにワイルドキャッツ所有の土地です。対馬市の土地ではない。ワイルドキャッツの理事会で売却が承認されれば実質的に売却が決定するんですよ。あなた方の感情論でどうこうなる問題じゃない」
チェ社長は冷淡に言い放った。そして続けた。
「議論をしていても仕方ない。理事長、裁決してください。清水が丘の土地を私に売却するか否か」
松尾は焦った。対馬側とプサン側の理事は、対馬側4人、プサン側3人だ。普通に考えて裁決すれば確実に否決される。しかし、本性を現したチェ社長の落ち着きはらった態度は松尾に裁決をためらわせていた。
「早く裁決してください!」
プサン側の理事のひとりが松尾に裁決を促す。
追い詰められた松尾はこう言うしかなかった。
「それでは……、清水が丘の土地をチェ社長に売却することに賛成の理事は挙手をお願いします」
3人しか手が挙がらなければ否決である。
ところが、手を挙げたのは4人だった。
三島だ。
「三島さん、賛成の理事に挙手をお願いしているんですよ」
松尾が言った。すると、三島は小さい声で呟くように言った。
「わたしは……賛成……です」
「三島―!」
トントン。
阿比留が三島に殴り掛かったその時、会議室のドアをノックする音がした。
16
1週間前。
その日グニョンは当直だった。夜、10時をまわった頃、支配人室の前を通ったときだった。中からチェ社長の声が聞こえてきた。グニョンは「社長、対馬に来てたんだ……」と思い、中に入って挨拶しようとしたが、中から聞こえてくるチェ社長が話している内容に愕然とした。チェ社長は電話で誰かと話しているようだ。グニョンは支配人室のドア越しに聞き耳を立てた。
「パクさん、三島は、今まで本当に上手くやってくれましたよ」
電話の相手は、パク市長のようだ。
「後は酒井の資金提供をストップさせて、緊急理事会を開くだけですな。そこが最後の仕上げですよ。対馬側はまさか三島が賛成するなんて、夢にも思いはしないでしょうな。あの土地を手に入れるために、私もそれなりに金を使ってるんだから、何としても目的を達成しなければなりませんよ。あの土地は対馬の人間にとって思い出深い土地らしいが、そんなことは関係ない。どうしてもあの土地が私は欲しいんですよ。パクさん。あの土地に隣接している万松院には、宗家の墓がある。壬辰・丁酉の倭乱(豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の朝鮮での呼び名)でわが国に攻めてきた宗義智の墓がありますからな。宗義智に睨みをきかせてやるんだ私は。あの土地にホテルを建ててね。それとね、パクさん、対馬での観光事業もそろそろ底をついてきたんですよ。低価格競争になっているからね。なんとか手を打たなければ、せっかく買収した高速艇の会社も倒産してしまう。そうなるとあなたも困るでしょう。私の会社が危なくなったら、あなたへの献金もできなくなってしまう。もちろん裏側の献金もですぞ。対馬側を信用させるために、プサンでの選手選考も大々的にやったから、これでリーグがなくなるとなると、大騒ぎになるでしょうな。だけど、そこはパクさん、あなたが上手くやってくださいよ。都合がいいことに慰安婦像問題や仏像盗難問題などで、韓日関係は良好とは言えない。その辺を上手く言って言い訳してください。すべてが終わったら、また、パーティーを開きましょう。あなたの集金パーティーをね。ハッハッハッハッ」
グニョンは息を殺して、チェの電話での会話を聞いた。そしてすぐに海人へ連絡を取った。海人はすぐに慶尚ホテルへやって来た。
「グニョン、どうしたんだ? こんな時間に『すぐに来て』なんて」
「海人、大変なの。私、とんでもないことを知ってしまったの……」
「何を知ったんだ?」
「国境リーグが……」
グニョンの声が震えている。
「国境リーグがどうしたんだ?」
「国境リーグが罠だったのよ……」
「罠って……どういうことなんだ?」
海人には訳がわからなかった。
「そもそも国境リーグ設立を仕掛けたのはチェ社長だったの。発起人の三島さんはチェ社長に言われて、松尾のおじさんに話をもちかけたのよ」
「そうなのか……。でも、それならそれでいいじゃないか。別に発起人は誰だって」
「違うのよ。チェ社長は三島さんを使って、松尾のおじさんと阿比留市長に野球の独立リーグ設立をプサン側に持ちかけさせたんだけど、チェ社長の狙いは清水が丘の土地だったの」
「今、球場つくってるあの土地か?」
「そう。あの土地は対馬市が所有してる土地でしょ。いくらチェ社長に力があっても、市が所有している土地を手に入れることはできないわ。それで、チェ社長は、まずあの土地を、独立リーグを運営するワイルドキャッツに売却させて、それからワイルドキャッツへの資金提供をストップし、リーグを運営できなくしたところで、自分が土地を買い取ろうって考えたのよ。だからワイルドキャッツへ最初の10億円を提供したのは、表向きはプライムの酒井社長だっていうことになっているけど、実際にお金を出していたのはチェ社長なのよ。もうすぐ緊急理事会が開かれて、土地の売却が決められてしまうわ。三島さんは必ず賛成に回るから、承認されてしまうのよ!」
「それじゃあ、国境リーグはできなくなってしまうのか?」
「そうよ。このままでは、国境リーグはつぶされてしまうわ……」
「そんな……。そんなことは絶対させない。これまでがんばってきたんだ。ウソンだって、親友のためにがんばってきたのに……。何とかしなくちゃ……」
翌日、海人は朝一番の飛行機で福岡へ飛んだ。
辻村に会うためだった。
「おう、海人。よく来たな」
辻村はいつもの調子で海人を迎えた。
「辻村さん、お願いがあるんです。一生に一度のお願いです」
「おいおい、一生に一度のお願いなんて、簡単にするもんじゃないぞ。俺は今までに1000回以上してきたけどな。ハハハ」
辻村の冗談にも海人は険しい顔を崩すことはなかった。
「率直に言います。国境リーグに資金を提供してください」
「おお、それは構わないよ。実は俺もリーグ設立が決まった時、阿比留に手伝わせてくれって電話したんだけど、すげなく断られたよ。俺とあいつは高校の同級生なんだけど、高校時代から、どうもあいつは俺を嫌ってるんだよなー。それで、いくら資金提供すればいいんだ?」
「とりあえず1億です」
「1億って、お前……、なかなかの額だぞ」
「1億出して、国境リーグの理事に加わってください」
「1億出せば理事になれるのか?」
「はい。1億円の出資をすれば、その瞬間から理事に加わることができるって、定款に記されているそうなんです。グニョンが言ってました」
リーグ設立の準備に携わったグニョンは1億円の出資者が理事に加われることを知っていた。
「理事になれるんなら喜んで1億出すけど、阿比留は俺を嫌ってるみたいだからなぁ。あいつが許してくれるかなぁ?」
「もうそんなことを言ってる場合じゃないんです。今、作ってる球場が作れなくなってしまうんです」
「なんでだ?」
「出資者が球場建設のための残りの40億円の提供はできないって言ってきたんです」
「確か……、パチンコ台メーカーの酒井さんが出資するって話になってるんじゃ……?」
「どうやらそれが罠だったみたいです」
「罠? それはまた穏やかじゃないなー。どういうことだ?」
「酒井さんがお金を出していたっていうのは表向きで、実は韓国のチェ社長が裏から資金提供してたんです。目的は清水が丘の土地です。チェ社長はあの土地がどうしても欲しかったんですが、あの土地は対馬市の土地です。チェ社長でも手に入れることはできません。それで独立リーグの会社を設立させて、一旦、対馬市から会社へ土地を売却させておいて、リーグへの資金提供をストップしてリーグをつぶし、会社から土地を買い取るという計画のようです」
「へぇー、ワルだねー。チェ社長ってのも。阿比留たちはまんまと騙されたってわけだ」
「残念ながら、そうみたいです……」
「よし、わかったぞ。海人、それで俺はどうすればいいんだ?」
「グニョンがチェ社長たちの動きを探っています。もうすぐ緊急理事会が開かれて、プサンのチェ社長たちは、土地の売却を承認させようとするみたいです。だからその時に、資金提供を申し出て辻村さんも理事に加わって、土地の売却に反対して欲しいんです。1億円以上の資金を提供すれば、その瞬間から理事になることができるんですよ」
「そうかわかった。理事会が開かれる時は連絡してくれ。ギリギリのところで乗り込んでやるからな。でもな、1億なんて普通出さないぞー。ホント。かわいい海人のためだから出すんだぞー。まあ、阿比留も少しは見直してくれるだろう……。喜んで出させてもらうよ」
そう言うと辻村は、左手をどんぶり、右手を箸のようにして海人に言った。
「海人、腹減ったろう? ラーメンでも喰いに行こうや」
17
ドアをノックして入って来たのは辻村だった。
「その採決、ちょっと待ったー」
「辻村!」
三島に殴り掛かっていた阿比留が驚いた顔で言った。
「阿比留ー、お前、暴力はいかんぞ。暴力は」
そう言うと、辻村は小切手を取り出した。
「はい1億円。ワイルドキャッツに提供させてもらうぞ。これで俺も理事だな。俺は反対! 土地の売却なんて認めない」
辻村はおどけた態度で言い放った。即座に松尾が反応した。
「ただいま山猫ネットの辻村社長から1億円の資金提供があり、辻村氏が理事に加わりました。辻村氏は土地の売却に反対という意思を示されましたので、賛成4人、反対4人の同数となりました。同数となった場合は理事長である私の判断に委ねることになっていますので、本件については否決とします」
三島以外の対馬側の理事が拍手をする。阿比留も複雑な表情で手を叩いた。
プサン側のチェ社長、パク市長らは、口を真一文字に結んで、無言のままである。松尾は続けた。
「清水が丘の土地売却については否決されましたが、今後のリーグ運営については、早急に新たな資金提供者を探す必要があります。事務局で1か月以内に今後の対応を検討し、再び緊急理事会を招集することにしますが、本日は閉会といたします」
松尾の言葉を聞いたパク市長、チェ社長、プサン側の理事ふたりは無言のまま会議室を出て行った。そこへ海人とグニョンが入ってきた。
「辻村さん、ありがとうございます」
海人が辻村にお礼を言った。
「海人! お前が辻村に頼んだのか?」
松尾が驚いた顔で海人に尋ねた。
「そうです。1週間前、グニョンが偶然、聞いたんです。チェ社長がパク市長と電話で話しているのを。それでチェ社長たちの企みが分かったんです」
「知っていたなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
阿比留がふてくされたように言う。
「だってお前、俺が電話した時に『お前にだけは頼らない』ってきつく言ってたじゃないか。それで、ちょっといじわるしてやったのさ……。というのは嘘で、ギリギリに手を打った方が相手にバレないからな。それにお前もギリギリならもう俺を拒めないだろう?」
辻村が得意気に言った。
「それにしても三島さんよー」
辻村が、横でうなだれている三島に言う。
「あんたほどの立派なスポーツマンだった人が、なんでまたあんな悪い奴の手下みたいなことしたんだ?」
三島が小さい声で答える。
「本当に申し訳ない。私もこんなことはしたくなかった……。でも、どうしても仕方なかったんです……。チェとは5年前に対馬で知り合いました。浅茅湾で釣りをしている時に声をかけられたんです。初めは私の人脈が目的だったみたいです。これでも私はジャイアンツの黄金時代を支えたひとりと言われていますから、財界にも知り合いが多いもので、何人かをチェに紹介しました。その頃は対等な関係でした。ところが、私のひとり息子が心臓の病気にかかってしまって……、突発性心筋症というんです」
「ウソンの友だちと同じだわ……」
グニョンが海人を見て言った。海人も頷いた。
「今、17歳になったばかりなんですが、だんだんと悪くなってきて、2年前にこのままでは20歳まで生きられないと医者に言われたんです。私が49歳のときに生まれた子でね。私にとっては何より大事な宝なんですよ。もうどうしたらいいか分からなくて絶望していたところにチェから連絡があったんです。『私の言う通りにしてくれたら、君の息子さんにアメリカで移植手術を受けさせてやろう』ってね。野球を冒涜するような行為だということは私も分かっていたんですが、チェの申し出に飛びつくほかなかった。私には息子を助ける方法がそれしかなかったんです。本当に恥ずかしい……。松尾さん、阿比留さん、申し訳ありません……」
三島は涙を流しながら、謝罪した。
「本来なら詐欺行為ですが、今回は否決されたんで、表沙汰にはしません。チェとパクも訴えたいところですが、国境リーグをやっていくには、プサン側の協力はどうしても必要ですから、今回は目をつぶります。ただし、今後は彼らの行動には細心の注意をはらっていきましょう」
阿比留がその場にいる全員に向かって言った。一同が頷いた。

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