『国境リーグ』Web版 vol.2

国境リーグ Web版
『国境リーグ』Web版 vol.2

3

元プロ野球選手たちを乗せたバスが去り、参加者たちもグラウンドから姿がなくなって、松尾が市の職員と野球道具を倉庫にしまって鍵をかけたとき、松尾の携帯が鳴った。ついさっきまで野球教室で子どもたちを指導していたフューチャーズのしまゆたかからである。

「はい松尾です。三島さん? 何か忘れ物ですか?」

「いやいや、そうじゃないんです。松尾さん、昨日の歓迎会の後、早く帰られましたね。松尾さんとお話したかったんですよ。ちょっと相談したいことがあるんです」


松尾には、三島の相談が予想できた。釣りである。松尾も釣りが趣味だ。浅茅湾に自分の船を所有している。三島は、松尾より7歳も年上の64歳であるが、とても若く見える。元プロ野球のスター選手で、引退後は野球解説者として活動するかたわら、長身と端正たんせいなマスクをかわれて俳優や雑誌のモデルとしても活動するなど、日本全国どこを歩いていても握手を求められる有名人である。そんな三島だが、奥さんが対馬出身ということもあり、野球教室以外でもよく対馬に来ている。松尾はこれまで何度も三島を釣りに連れて行っていた。


「いいですよ。釣りでしょ? 何釣りがいいですか?」


「いやいや違うんです。釣りにも行きたいですけど、違うんです」


「違う? それじゃ何ですか?」


「野球です」


「野球?」

松尾は、三島が何を言っているのか、訳がわからなかった。

「そう野球です。私が松尾さんに相談したいことは野球なんです」

「野球って……。たった今、フューチャーズの野球教室は終わったじゃないですか?」

「野球教室のことではありません」

「それじゃ野球の何ですか?」

「詳しいことは会ってお話したいんで、今晩、どこかで会っていただけませんか?」

「あ……はい。いいですよ。それじゃ6時に達磨だるま寿司でどうですか? 前に一度ご一緒したことがある寿司屋ですけど」


「達磨寿司ですね。わかります。6時にうかがいます」


「それじゃ6時に」


電話を切った松尾は、三島の相談が何なのか、いろいろと思いをめぐらせてみた。「まさか三島さん、野球賭博とばくの話でも持ちかけてくるのか?」など、良くない想像が働きかけたが、「三島さんはそんな人じゃない。まじめな人だから……」と思い直したりもした。結局、会って話してみるまでは考えないことにしようと決め込むしかなかった。

達磨寿司がある大手橋おおてばしは厳原港の近く、かすかに海の香りがする場所にある。スナック街も近いため、達磨寿司からスナックというコースで飲む人が多い。
松尾が達磨寿司のカウンターで待っていると、6時を少し回ったところで三島が現れた。長身の三島は、窮屈きゅうくつそうに頭を少し低くして暖簾のれんをくぐり、店内へ入ってきた。早足で松尾が座るカウンターの隣まできて、椅子に腰を下ろしながら遅刻をびた。
「すみません。少し遅れちゃいましたね」
「まぁまぁ、まずは乾杯しましょう」
松尾はあらかじめ頼んでおいたビールを三島のグラスに注いだ。
「それじゃ、今年もありがとうございました」
松尾が言うと、三島も言葉を返す。
「こちらこそ今年もお世話になりました。カンパーイ!」
松尾と三島はグラスをカチンと鳴らすと、寿司を注文して、本題に入った。
「ところで三島さん。相談って何ですか? 野球っておっしゃってましたね」
「そうです。野球です。それもプロ野球です」
「えっ、プロ野球って……。三島さんが何をおっしゃっているのか、私には全くわかりませんけど……」
「プロ野球」と聞いて、松尾は、ますます訳がわからなくなった。松尾が困惑する表情を浮かべたため、申し訳ないと思った三島は、ようやく本題に入った。
「松尾さん、独立リーグってご存じですか?」
「独立リーグ……。あー、四国アイランドリーグや、BCリーグなんかがありますね? BFLだったかな……? 去年開幕しましたよね。確か……」
「さすが松尾さん。よくご存じですね。2代目の関西独立リーグのことですね」
「それで、その独立リーグがどうしたんですか?」
松尾には、未だ三島が何を言おうとしているのか、理解できなかった。
「松尾さん、僕はね、この対馬でも独立リーグができないかなって思っているんですよ」
「えっ、対馬で独立リーグ?」
「そうです。正確に言うと、対馬とプサンでやる独立リーグ、日韓国境独立リーグです」
「日韓国境独立リーグ? それはまたスケールの大きい話ですね」
三島の話は松尾の想像を越えていた。対馬とプサンで野球の独立リーグを設立するなど、誰ひとり考えないことだろう。それだけ現実離れした話だ。
「松尾さんは、今、そんなことできるわけないって思ったでしょう。でもね。僕はどうしても実現させてみたいんです。子どもの頃、野球を始めた子どもたちは、みんなプロ野球の選手を夢みます。でも、プロ野球の選手になれるのはほんの一握り。みんなどこかで野球を諦めてしまう。でも野球を諦めてしまう子たちの中にもダイヤモンドの原石はいるんです。プロ野球でも監督に使ってもらえずに自由契約になって、他チームに移籍して花開く選手がいます。そういう選手はプロになれなかった中にもいるはずなんです。僕は、そういう選手たちが活躍できる場所をたくさんつくってやりたいって思っているんですよ。韓国にもプロ野球があります。韓国でも日本と同じように、活躍の場を与えられぬまま野球を諦めなければならない選手がいるんです。特に韓国には兵役へいえきがありますから、日本よりもシビアです。兵役から戻ったら他の選手にポジションを<奪<<うば>>われていて、居場所がなくなってしまう選手が何人もいるみたいです。韓国でもそういう選手の受け皿になれる場を僕はつくってやりたいんです」
三島の話を聞きながら、松尾は三島の野球に対する情熱に感動していた。実現すれば素晴らしい。対馬で長年少年野球に関わってきた松尾にとっても夢のような話である。しかし、現実的にそんなことが本当にできるのか、実現させるために、松尾には何ができるのか、何ひとつ分からなかった。
「確かに三島さんの考えておられることは素晴らしいと思います。でも、具体的にどうやって実現させていこうとお考えなんですか?」
「一番の問題はお金です。仮にですが‥‥、僕の構想では、対馬に2チーム、プサンに2チームつくって、リーグ戦をやりたいと思っているんです。球場は対馬とプサンにひとつずつでいいでしょう。プサンにはすでに立派な球場がいくつかありますから、対馬にひとつ球場をつくればそれで大丈夫。あとはそれぞれの球団の選手やスタッフの給与ですね。細かいことは、リーグを統括とうかつする会社を設立して、その会社に出資する形で資金を調達しようと考えています。実は出資してくれそうな会社もすでに見つけてあるんですよ。だから、松尾さんにお願いしたいのは、対馬市長の阿比留さんに、まずこの独立リーグの話をしてもらって、阿比留さんに納得してもらったら、阿比留さんを中心とした対馬市の行政機関にプサン側と交渉して欲しいんです。このリーグには、対馬市とプサン市、双方の行政の協力が不可欠ふかけつです。上手くいけば、何年後かには利益が出る可能性もあると思うんですよ。僕は」
「利益が出る?」
松尾は三島の「利益が出る」という言葉に反応した。苦しんでいる阿比留の力になれるかもしれないと思ったのである。
「その可能性はあります。松尾さんはWBCやオリンピックの野球はご覧になりましたか?」
「もちろん」
「日本でも韓国戦は高視聴率なんですが、韓国ではもっとすごい数字なんですよ。第1回WBC準決勝の試合前には、地上デジタル放送を受信できるワンセグ付き携帯電話が品薄になったらしいですよ。それほど韓国の人たちは日本との野球の試合を見たいんです。だから、試合の中継ができれば十分お金になると思うんです。それと、インターネットで中継するという方法もありますね。インターネットで中継すれば、地球上のどこにいても試合を見ることができます。ということは、地球上のどこからでもファンを獲得することができるってことです。ネット中継で試合を見ていると、『いつか対馬に行って生で観戦したい』って思う人も出てくるかもしれません。そうなれば間接的に新たな経済効果が期待できますよ。どうですか? 松尾さん、お力を貸していただけないでしょうか?」
松尾は、三島がそこまで具体的に考えているとは思わなかった。三島の話を聞いていると、「できるかもしれない」という気持ちが松尾の中で芽生めばえてきた。松尾はワクワクしてきた自分の気持ちを抑えられなかった。
「わかりました。私にできることは何でもやります。三島さん、ありがとう。あなたの野球に対する情熱は素晴らしい。乾杯しましょう。日韓国境独立リーグにカンパーイ!」
松尾と三島は達磨寿司からスナックへはしごして、遅くまで野球談議に花を咲かせた。松尾は大きな胸の高鳴りを感じていた。
翌日、松尾は対馬市役所に阿比留を訪ねた。秘書室長の橋本に用件を告げると、市長室に案内された。
「先輩、どうしたんですか? 電話もらえれば夜にでも時間つくったのに」
急な訪問に阿比留は戸惑い気味だ。
「お前、昨日はゆっくり休めたのか?」
「はい。あまり覚えてないんですけど、先輩に話を聞いてもらってちょっとすっきりしたみたいで、昨日は一日中ゴロゴロしてたまってたものが流れ出た感じです」
「そうか。それは良かった。昨日も言ったが、あまりひとりでため込むなよ。俺で良かったら聞くからな」
「はい。ありがとうございます。先輩、頼りにしてます。それで、今日は何の用ですか?職場まで先輩が訪ねてくるなんて、よっぽど大事なことですよね?」
「啓、俺はな、一昨日おとといお前が対馬のためにどれだけ頭を悩ませてストレスため込んでるのか知らされてな、俺も何か力になれないかってな、本気で考えてみたぞ。でも、所詮、野球しか知らない俺の頭じゃ無理に決まってるわな……」
「いや、そんな……。先輩に迷惑かけた、悩ませちゃって、本当にすみませんでした。一昨日のことは、本当にあまり覚えてないんですけど、最近は、常に考えてるんですよ。起死回生の財政再建策のことは。でも、どんなに知恵を絞っても、出てくるのは、いつもため息ばかりで……。自分の力では限界を感じてたところだったんで、先輩にまでそんなこと言っちゃったんですね。忘れてください。酔っぱらいの言ったことですから……」

阿比留は手で頭をかきながら、ばつが悪そうに言った。

「俺は俺なりに考えてみたんだよ。お前のため、対馬のために何か力になれないかってな。でもな、さっきも言ったけど、俺の頭じゃ限界があるよ。俺は大学にも行ってないし、世の中のお金のことはさっぱりわからん。そんな俺がお前と対馬のためになる画期的なアイディアを思いつくはずがない」

「先輩、本当に申し訳ないです。忘れてください」

「ところがだ、啓、昨日、フューチャーズの三島さんから、俺たちじゃ想像がつかないような提案があったんだよ」

「えっ、どんな提案なんですか?」


阿比留の顔色が一瞬で変わった。


「それは、対馬と、韓国のプサンで野球の独立リーグを設立するっていう話だ。三島さんは、日韓国境独立リーグって言ってた」

「独立リーグ? それは確かに想像がつきませんよ。あまりに荒唐こうとう無稽むけいな話だから……」

阿比留はあきれ顔に変わった。


「俺も最初はそう思った。お前と同じように。『そんなことできるはずない』ってな。でも、三島さんは、いろいろ具体的に計画を立てておられたんだ」


それから松尾は、前の夜、三島から聞いた日韓国境独立リーグの構想を、そっくりそのまま阿比留に話した。話を聞いていくうちに、阿比留も真剣な顔つきに変わっていった。


「先輩、確かに素晴らしい構想です。もし実現すれば、経済効果も期待できますね。ただ、大きな問題がふたつあります。ひとつは資金の問題です。三島さんは出資してくれそうな会社を見つけてあるとおっしゃっているそうですが、それがどの程度の出資になるのか、まずはそこが問題です。金銭的には対馬市は無力です。一般企業に頼る以外に道はありません。それともうひとつ、プサン側がこの独立リーグ構想に賛成して参加してくれるかという問題があります。プサン市のパク市長とお会いして話してみなければなりませんが、まずは三島さんと連絡を取って、資金面をある程度クリアにして、プサンに行きましょう。その時は先輩も世話役として同行してください」


「もちろん。俺にできることは何でもするぞ」


「お願いします。先輩、頼りにしてますよ」

「おう、まかせとけ」

松尾はプロ野球という夢に向かって白球を追いかけていた社会人野球時代のような胸の高鳴りを覚えていた。

「今度は夢で終わらせてはダメだ。実現させなきゃならん。絶対に」。
阿比留に話して、第一歩を踏み出すことができた喜びと同時に、松尾の中で、独立リーグ実現に向けての新たな決意が芽生えていた。
市役所を後にした松尾は、早速、三島の携帯に電話したが、留守電になっていた。三島は朝の飛行機で東京へ戻っている。松尾はメッセージを三島の携帯に残した。

「あー、三島さん。松尾です。今、市長の阿比留の所へ行ってきました。三島さんの熱意は阿比留に伝わりましたよ。それで、具体的な資金調達のめどについて、阿比留が話したいと言ってます。一度、連絡をいただけますか? 宜しくお願いします」

夜になって、三島から松尾へ電話がかかってきた。

「はい。松尾です。三島さん?」

「どうも。三島です。すみません。電話に出れなくて。ちょうど飛行機の中でした」

「そうですか。タイミングが悪かったですね。留守電は聞いていただけましたか?」

「はい。聞きました。阿比留市長が動いてくれるとなると、一気に実現に向けて可能性が出てきます」

三島は意外に冷静だった。自分の胸の高鳴りと比べて、若干じゃっかんの温度差を感じたものの、松尾は話を先に進めた。


「それでね。三島さん。三島さんがおっしゃってた出資してくれそうな会社というのはどこなんですかね? 阿比留はまずそれを知りたがっています」

「そうですか。パチンコ台メーカーのプライムという会社です。松尾さん、ご存じですか?」

松尾も知っている会社名だった。テレビCMを見たことがある。確かに、パチンコ業界はもうかっていそうである。あくまで松尾のイメージではあるが……。

「ああ、私でも知っていますよ。対馬でもパチンコは娯楽ごらくとしてすっかり定着していますからね。私はやりませんが……」

「あそこの社長の酒井さかいさんとはジャイアンツ時代から懇意こんいにしてもらっているんですよ。とても野球好きな方で、1週間ほど前にお会いした時、日韓国境独立リーグの話をさせてもらったんですけど、是非、協力させてほしいと言ってくれたんです。『金ならいくらでも出す』という勢いでした。松尾さんや阿比留さんの協力を得ることが先決せんけつだったんで、具体的な金額などはまだなんですけど、必ず力になってくれます。僕が保証します」

「それはありがたい。こっちの方でも阿比留が出資してくれる会社を探すと言っていました。それでね。三島さん、日韓国境独立リーグ設立には、具体的にいくらぐらい必要なんですかね? 三島さんの構想で実現の方向へ向かうとすれば……」


「ちょっと待ってください。簡単に計算したものがありますから……。えーと、まず対馬に建設する球場ですが、土地は、対馬市が所有している土地を、リーグを運営する会社が5億円ほどで買い取らせてもらいたいんです。場所は後々決めるとして。それで球場は、NPBの公式戦も視野しやに入れた方が後々のちのちのために良いと思いますから、最低2万5000人は収容しゅうようできる規模のものは欲しいですね。だとすればローコストで建設して30億円。それから事務を行う職員も含めた各球団の選手やスタッフの給与ですが、選手25名、スタッフ15名で、平均月25万円が最低ラインだと考えています。リーグが稼働かどうするのは2月のキャンプインから9月までとすれば8か月ですね。これで計算すると、25万円×40人×4球団×8か月=3億2000万円。これに選手やスタッフの住居費が1か月5万円として、5万円×40人×4球団×8か月=6400万円。あとはリーグ運営会社のスタッフの給与ですが、20人は必要だと考え、ひとり平均30万円でこちらは12か月分必要なので30万円×20人×12か月=7200万円です。あとはチケット製作費や広告費、それとインターネット中継システムの構築など、諸経費に20億円くらいは余裕を持っておきたいところです。これらをすべて合計すると、59億5600万円です。後で松尾さんのところへFAXしておきますよ」


「ああ、そうしてもらえますか。まずは三島さん、おりを見て、出資してくださる酒井さんへ具体的にいくらぐらいなら出資が可能か、お話を進めていただけませんか?」


「わかりました。少しでも多く出資してもらえるよう酒井さんに頼んでみます」


「ありがとうございます。それではまた連絡させてもらいます」


電話を切った後、少しして松尾の自宅に三島からFAXが送られてきた。
日韓国境独立リーグ設立に関する具体的な数字が並んでいる。決して容易に集められる金額ではない。しかし、その数字を眺めながら、松尾には「必ず実現できる」という確信に似た自信があった。「三島さんの情熱を受け入れない人などいるはずがない」。松尾の心はすでに選手選考など、本格的な始動に向き始めていた。


翌日、松尾は再び市役所の阿比留を訪ね、前夜の三島との会話の内容を話し、三島から送られてきたFAXを見せた。

「先輩、三島さんはかなり具体的に考えているんですね。ちょっと驚きました」

「そうだな。俺も三島さんがここまで細かく考えているとは思ってなかったよ」


「でも、先輩、ここに書かれている数字は、簡単に集まる金額ではないですよ。それに選手やスタッフの給与に関しては1年分だけの予算しか考えられていないので、実際に開幕した場合、すぐに利益が出ないと、潰れてしまいますね。給与に関しては、最低3年分くらいの予算を初めから立てておかないとダメですね」


阿比留は松尾より冷静だった。日韓国境独立リーグ構想は、対馬市にとって大きな魅力みりょくを秘めてはいるが、対馬市長としてリスクをおかすわけにはいかない。成功への確信がなければ動くわけにはいかないのである。

「そうだな。三島さんの試算以上に資金は用意しておかなきゃダメということだな。お前の立場を考えたら、当然、慎重しんちょうになるさ。でもな、俺は三島さんの情熱に動かされない人はいないと思っている」

松尾がそう言った時、松尾の携帯が鳴った。三島からだった。

「はい。松尾です。三島さんですか?」

「どうも。三島です。松尾さん、今、大丈夫ですか?」

「はい。実は今、阿比留市長のところへ来てるんですよ」

「それはちょうど良かった。今、酒井さんに会ってきたんですよ。早い方がいいと思ったんでね」

「そうですか。それでどうでしたか?」

「はい。具体的に数字を示して、説明しました。そしたら、条件付きですが、50億円までなら出せると言ってくれました」

「本当ですか? それはすごい。一気に現実味をびてきましたね。ちょっと待ってください。今、阿比留市長と代わりますから」

そう言うと、興奮こうふん気味の松尾は阿比留に代わった。

「三島さん、市長の阿比留です。酒井社長はいくら出資してくれるとおっしゃっているんですか?」


「はい。50億円です」


「50億! 本当ですか? ちょっと信じられない額ですが……」


松尾と違って阿比留は冷静であった。

「本当です。ただし、50億円出資するには2つ条件があります。ひとつは独立リーグが開幕したら試合のネット配信をプライムにやらせて欲しいということ、それと、もうひとつの条件は、プライム直営のパチンコ店を対馬に2店舗てんぽオープンさせてもらうことです。酒井社長は上島と下島に1店舗ずつ、韓国人観光客を集客できる場所にオープンしたいとおっしゃっていました」

「直営店ですか……。なるほど、それならば酒井社長にも十分メリットがあるかもしれませんね。居抜きで使える物件があるかもしれないですし、2店舗なら可能だと思います」


「そうですか。それは良かった。その条件をのんでいただけるのであれば、酒井社長は50億円を喜んで出資してくれますよ」


「ネット配信のことは問題ないと思いますから、直営店の方を具体化して、連絡させてもらいます」
「わかりました。連絡お待ちしています」


「ちょっと待ってください。世話役に代わりますから」


阿比留は電話を松尾へ戻した。松尾は阿比留が話している言葉を横で聞きながら、ワクワクしていた。そして阿比留から電話を受け取ると、


「三島さん、本当にありがとうございます。これから具体的に動いていきます。そして、準備が整ったらプサン側との交渉ですね。乗り越えなければならない壁は多いと思いますが、もうすでに私はワクワクしてますよ」


「私もです。私は先程の阿比留市長のお話を酒井社長に伝えます。酒井社長も喜びますよ」


「三島さん、何度も言いますが、本当に、本当にありがとうございます。また連絡させてもらいます」


電話を切ると、阿比留と松尾はがっちり握手を交わした。

「先輩、最初は荒唐無稽な話だと思っていましたが、一気に現実味を帯びてきましたね。いけますよ。これは。直営店を2店舗という条件なら、確かに酒井社長にもメリットがありますからね。独立リーグによって韓国人観光客が増えると仮定すると、直営店での売り上げで出資した分はあっと言う間に元が取れそうですもんね。まさにウインウインですよ。それでも、資金的には十分とは言えませんし、まだまだ課題はいくつもありますが、力を合わせて克服しましょう。そして、半年後を目処にリーグの概要をまとめてプサンへ行きましょう。難しい交渉ですが、妥協だきょうできる部分とそうでない部分は明確にしておく必要がありますね」

「そうだな。資金面でも、こっちで考えられるところにあたってみよう。そうだ、お前の同級生の……」

「辻村ならダメです」

「そうか……、お前がダメというなら仕方ない。商工会議所を通じて、本土の企業にあたってもらってくれ」

「わかりました。商工会議所に頼んでおきます」


市役所を出た松尾は、その足で近くの清水が丘多目的広場へ行った。一昨日はフューチャーズの野球教室が行われたこのグラウンドで、松尾は何本ノックをしてきたことだろう。日韓国境独立リーグができれば、対馬の野球少年たちの未来に新たな目標をつくってやることができるかもしれない。もし妻が許してくれるなら、勤めている運送会社を退職し、独立リーグを運営する会社で今後の人生を歩んで行きたいとの思いがわきあがってきて、どんどん気持ちが先走ってしまう松尾であった。

4

半年後、2016(平成28)年4月、阿比留と松尾は、プサンへ渡った。通訳として、慶尚ホテルの女性スタッフであるコ・グニョンが同行している。松尾の妻と一緒に生け花教室に通っているグニョンに、松尾が通訳を頼んだわけだ。松尾の妻からの強力な推薦があった。松尾も高校生だったときからよく知っているグニョンを娘のように可愛がっていた。グニョンは快く通訳を引き受け、休暇をとって同行してくれた。
この半年間、阿比留の依頼を受けた厳原商工会議所は、独立リーグへ出資してくれる企業を懸命に探した。阿比留自身も福岡、長崎、熊本、鹿児島、山口と、何度も日帰りで出張して企業のトップに頭を下げた。しかし、現実は厳しかった。
前向きに検討するという返事をくれたのは、山口に本社を置く衣料品メーカー、ハミングバードだけであった。ハミングバードは、海外の安価な労働力を使って、低価格で良質の衣料品を販売することで、今や世界的な企業に成長しつつある。「この会社が出資してくれれば、次の展開が広がるはずだ」。これが阿比留の希望だった。
また、阿比留と松尾は、三島と連絡を取り合いながら、独立リーグを統括する組織の概要がいようを作り上げていた。リーグの運営に関する最高意思いし決定機関として理事会を設置し、その決定を日本の法律下で設置するリーグ運営会社の株主総会によって承認しょうにんする形をとることなどである。詳細はプサンでの交渉後にある程度時間をかけて決めていく予定でいた。
阿比留と松尾が最も不安な点は、1か月前、プライムの直営店2店の店舗候補を酒井社長の代理人が承認し、リーグ運営初期費用の目処めどがついた直後からプサン側にコンタクトを取っているものの、独立リーグ設立に対するプサン側の姿勢が全く見えてこないことだった。プサン側が不参加となれば、計画は頓挫とんざする。阿比留と松尾は、少しの希望と多くの不安を抱えながらプサン港に降り立った。
プサン市庁舎はプサン港がある中区チュンクから少し離れた蓮堤区ヨンジェクにある。阿比留、松尾、グニョンの3人はタクシーで市庁舎へ向かった。市庁舎へ着くと、市長の秘書という女性が玄関で3人を待っていた。挨拶を済ませると、秘書は3人を市長室へ案内した。
パク・スンウ(朴勝友)プサン市長は、元国会議員である。前市長には、プサン港がハブ港として発展する際の拡張工事で不正の疑いがあった。地元の有力者たちは、任期満了に伴う市長選挙が行われる時、地元出身の国会議員であったパク氏に出馬を要請。これを受けて出馬したパク氏が、選挙で前市長に圧勝して新市長となった。三年前のことである。パク市長は、軍事政権下で海軍士官学校の教官をつとめた経験がある。突き刺さるような鋭い眼光と、低い声の持ち主で、相手の第一印象は確実に良くない。
秘書に案内され、市長室に入ると、市長ともうひとりの男性がいた。その男性を見たグニョンが韓国語で言った。
「社長! なんでここにいるんですか?」
その男性とは、グニョンが働いている慶尚ホテルを経営するチェ・テヒョン(崔太鉉)社長だった。
「おー、グニョン。君は阿比留市長たちの通訳か? 僕とパク市長とは長年の友人でね。対馬市長から打診だしんがあった独立リーグ設立の相談に乗って欲しいと市長から依頼されたんだよ。だから今日は私も同席させてもらうよ」
「そうだったんですか……」
驚いたグニョンだったが、緊迫きんぱくした話し合いが展開されそうな雰囲気の中、チェ社長がいてくれるのは心強いと思った。
チェ社長は、韓国財界の有名人である。プサンと対馬を結ぶ高速艇を運行している会社の社長でもある。韓国のリゾート地として有名なチェジュ(済州)島でも三つのホテルを経営している。もともとは韓国の中堅クラスの建設業者であったが、インチョン(仁川)国際空港建設に参入して多額の利益をあげたことをきっかけに、次々とホテルを買収して、リゾート開発を行ってきた。インチョン国際空港の建設が決まった当時、国会議員であったパク市長が韓国建設交通部に太いパイプを持っていたことから、その後のふたりの蜜月みつげつ関係をうわさする声も少なくなかったが、収賄しゅうわい贈賄ぞうわいともに証拠はなく、マスコミも報道することはなかった。対馬とプサンを結ぶ高速艇が就航すると、強引に会社を買収し、対馬に慶尚ホテルを建設した。
チェ社長は、パク市長とは正反対で、人当たりが良く、初対面の人は、ほとんど好印象を抱く。
阿比留と松尾は、パク市長、チェ社長と挨拶を交わし、名刺を交換した。公的な肩書がなかった松尾だが、「独立リーグ設立準備室 室長」という肩書の名刺を作ってプサンへ来ていた。名刺交換が終わると、早速、阿比留が、日韓国境独立リーグの説明に入り、グニョンが丁寧に通訳した。時折、チェ社長が質問してきたものの、パク市長は終始黙って聞いている。阿比留と松尾は、それが怖かった。
張りつめた空気の中、阿比留による説明が一通り終わった後、沈黙を保っていたパク市長が口を開いた。
「阿比留さんはどこのファンですか?」
「えっ? あ~、ジャイアンツです」
グニョンの通訳を聞いた阿比留は、一瞬、理解出来なかったが、巨人ファンであることを伝えた。
「松尾さんは?」
パク市長は松尾にも同じことを聞いた。松尾はグニョンに意味は理解していることをアイコンタクトで伝えると、
「私は、どこのファンというより、プロ野球ファンです。野球教室を通じて多くの元プロ野球選手と知り合いになり、その人たちがいろんな球団で指導者になっていますから、特定の球団に肩入れすることはできなくなりました」
松尾の回答を、通訳を通して聞いたパク市長は、説明を聞いているときとは違って、少し穏やかな表情になった。
「なるほど。わかります。いろんなお付き合いがありますからね。ここにおられるチェ社長も特定の球団を応援することはできないと言ってますよ。でもね、私は阿比留さんと同じジャイアンツファンです」
「そうなんですか?」
通訳を聞かなくても「アビルサン」「ジャイアンツファン」という単語から意味を理解した阿比留が少し前のめりになった。
「いやいや、誤解しないでください。私はロッテジャイアンツのファンです。ここプサンに本拠地を置くチームです」
「あっ、なるほど……。そうですか」
阿比留は「ロッテジャイアンツ」という単語が出てきたことで意味を理解した。
「ごめんなさい。少しまぎらわしいことを言いました。私はずっとロッテジャイアンツを応援していますが、残念ながら芽が出ないままプロ野球から去っていく選手を何人も見てきました。そんな選手たちに、セカンドチャンスを与えてあげられますね」
グニョンがパク市長の言葉を通訳すると、阿比留と松尾の表情がくずれていった。
「ということは、ご協力いただけるということでしょうか?」
阿比留が確認するようにたずねると、
「これから忙しくなりますね」
グニョンが通訳すると、阿比留と松尾はお互いの顔を見合った。阿比留は両手を握り、「ヨシッ!」と言うと小さくガッツポーズをした。そして、席を立ってパク市長へけ寄り握手を求めた。松尾もチェ社長へ駆け寄った。4人は交互に握手を交わすと、席に戻り、阿比留が口を開いた。
「本当にありがとうございます!」
阿比留が頭を下げて改めてお礼を言うと、
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
目からあふれる涙をぬぐいながら、松尾は立ち上がって深々と頭を下げてお礼を言った。
「お礼を言わなければならないのは私たちの方です。この独立リーグの構想は素晴らしい。韓国でも大きなビジネスチャンスになります。具体的なことはこれから急いでつめていきましょう。プサンの方には2チームということでしたが、早速、私の方で2チームの監督、コーチらのスタッフを集め、選手選考の準備に取りかかりたいと思います。資金面でも私の会社でできる限りのことはさせてもらいますよ」
チェ社長の言葉をグニョンが通訳した。
「ありがとうございます。本当に助かります。対馬の方の2チームについても、早急にスタッフを集め、選手選考の準備に取りかかろうと思います」
「ご説明いただいた内容でほぼ問題ないと考えますが、運営の組織を人選まで含めて細かく決めていかなければなりませんな」
「そうですね。プサンと対馬双方から数名を出して組織づくりをするチームを結成しましょう。それを受けて、また、お会いしたいと思います」
「そうしましょう。今度は私たちが対馬へ伺いますよ」
グニョンの通訳で阿比留とチェ社長が会話を続ける。
その後、和やかなムードで会話が弾んだが、握手を交わした直前とはうって変わってパク市長はほとんど言葉を発することはなかった。ずっと黙っていたパク市長だが、阿比留、松尾、グニョンの3人が帰ろうと、席を立った時、突然、口を開いた。
「阿比留さん、ひとつ言っておきたいことがあります。あなた方は『日韓国境独立リーグ』だとおっしゃる。しかし、それは違う。『韓日国境独立リーグ』です。そのことは絶対に忘れないでいただきたい。本来ならば運営会社は韓国の法律の下で設立していただきたいところだが、それは阿比留さんがどうしてもゆずれないとおっしゃるので妥協することにしよう。だが、リーグの名称は絶対に譲る気はないことをご承知おきいただきますよ」
グニョンが通訳すると、阿比留と松尾は顔をこわばらせた。
「パクさん、まあ、今日のところはいいじゃないですか」
チェ社長がパク市長をなだめるように言った。
チェ社長の穏やかな顔に、阿比留と松尾は救われたが、言葉を返すことはできず、軽く頭を下げて、市長室を後にした。
阿比留と松尾が、プサンでパク市長、チェ社長と会談した直後から、独立リーグを運営する組織づくりが対馬の厳原で始まった。プサン側からは慶尚ホテルの従業員とプサン市から2名ずつ、対馬側からは松尾と商工会議所から2名、三島も東京から駆けつけて会議に参加した。そしてグニョンもチェ社長の指示で通訳として手伝うことになった。
対馬市とプサン市が発足に向けて合意したことで、日本と韓国、対馬とプサンをまたいだ独立リーグが動き出したのである。

5

2016(平成28)年6月1日午前10時、グニョンは、新厳原港国際ターミナルの到着ゲート前にいた。慶尚ホテルの上司と一緒である。上司は対馬に赴任ふにんしたばかりで日本語はほとんどわからない。そのため、ことあるごとにグニョンを通訳と称して行動をともにさせようとする。慶尚ホテルの業務に加えて、独立リーグ設立準備室の会議でも通訳を務めているグニョンは、このところ忙しく、生け花教室にも通えなくなっている。前日には、松尾のおばさんが、心配して電話をかけてきた。おばさんには「大丈夫。私は元気」と答えたが、心身ともに疲れがたまっていることを自覚していた。
疲れているグニョンを、今日はさらに疲れさせるであろうある団体が、もうすぐ高速艇に乗って厳原港に到着する。その団体が、到着後に予定している行動を上司に聞かされたときから、グニョンの心は、深い霧が降りてきたような不安にかられていた。
ある団体とは、韓国の退役たいえき軍人の団体である。全国的な組織である韓国在郷ざいきょう軍人会のプサン支部の有志ゆうしだという。日本政府が、従軍慰安婦問題に関する記者会見の中で、竹島について改めて日本固有の領土であると主張したことに対する抗議行動を、対馬市役所前で行うらしい。グニョンが上司から聞いたところによれば、慶尚ホテルが、この退役軍人たちの世話をすることになったという。グニョンは、退役軍人の老人たちが、スムーズにコミュニケーションがとれるようにと、上司から通訳を命じられたのだ。
「私、とても不安で、嫌な予感がします」
「別に大げさに考えることはないよ。ひまなおじいちゃんたちがちょっとしたパフォーマンスをやりに来るだけさ」
上司はグニョンとは違って、軽く考えているようだ。
「抗議行動って、まさか自害する人が出たりしないでしょうね」
「そんな心配はいらないよ。対馬南警察署から何人か警官が警戒に来るらしいし、刃物類は事前にチェックされるんじゃないかな」
「刃物じゃなくても、焼身自殺ってことも……」
「それも大丈夫。ガソリンや灯油だってチェックするはずだよ」
「私が一番心配しているのは、住民たちとのトラブルです。住民たちも戸惑っていますよ。独島トクトのことを対馬で抗議するなんて、韓国人の私でもおかしいと思いますから」
「グニョン、大丈夫さ。対馬の人たちは温厚な人ばかりだ。退役軍人のおじいちゃんたちが何をしたって、何を言ったって、ただ遠くから見てるだけだよ。おじいちゃんたちだって警察のやっかいになるようなことはしないさ」
グニョンは、「この人はわかってない」と思った。高校時代から何度も差別にあい、そのたびに深く傷ついてきたグニョンと違って、厳原に来たばかりでほとんど日本語がわからないこの上司は、差別的なことを言われても気づいていなかったのかもしれない。
対馬高校を卒業して一旦韓国に帰り、対馬で働かないかと誘われた時、グニョンは行こうと思わなかった。もう傷つきたくないという思いが強かったからだ。しかし、ホテルを経営するチェ・テヒョン(崔太鉉)社長から、「対馬で学んだ君は、対馬の人たちのことを誰より分かっているはずだ。これから韓国と対馬はもっと交流がさかんになる。韓国から対馬を訪れた人たちが、嫌な思いをしないように、対馬の人たちの偏見を君のがんばりでぬぐい去って欲しい」と言われたことがきっかけとなり、悩んだ末に、20歳の時、グニョンは再び対馬の土をむ決意をした。それが対馬で学んだ自分の使命だと感じたからだ。
チェ社長から言われた言葉を胸に対馬で働くようになってから、グニョンは、積極的に厳原の人々の輪に入っていくよう心がけた。しかし、松尾のおばさんやおじさんのように、全く差別意識や偏見をもっていない人がいる一方で、居酒屋で遭遇した中年男性のように、グニョンを深い悲しみの闇へ突き落とす人も存在する。
韓国人に対して差別意識や偏見を持った人たちが、今日の抗議行動と対峙したらどうなるか。グニョンは恐かった。退役軍人と聞くだけで、思想的にはかたよった感じを受ける。抗議行動中に感情が高ぶって、我を忘れてしまうことだってあるかもしれない。それを住民たちが目にしたら……。
上司が言うには、長崎から日本のマスコミが取材に来ているらしい。何かトラブルが起こって、それがテレビや新聞で大きく報道されたら、対馬と韓国の関係にまたひとつ大きな溝ができてしまう。そうなるとグニョンの仕事や日々の生活にも大きな影響が出てしまうことは間違いない。慶尚ホテルで働くようになって2年余り、今日が一番不安である。
定刻通りに高速艇が到着し、到着ゲートから出てきた退役軍人は23人。付き添いと思われる30代くらいの若い男性がふたりいた。退役軍人たちは、韓国国旗の太極旗たいきょくきを中心に、左右に「独島死守」と書いた鉢巻はちまきを頭に巻いていた。そろいのTシャツの背中には、日本では竹島と呼んでいる独島をかたどったイラストが描かれている。
到着ゲートから出てくる時、全員で「独島はわが領土」、通称「独島の歌」を声高に歌っていた。この歌は、かつてチョン・クァンテ(鄭光泰)が歌ったもので、韓国では幼稚園児から歌わせる教育が行われている。韓国のカラオケには必ずこの歌があるといわれており、韓国人のほぼ全員がこの歌を知っている。もちろんグニョンも知っているし、歌うことができる。
退役軍人たちが歌い終わると、グニョンはとなりにいた上司からリーダーへ挨拶に行くよううながされた。胸の名札にはキム・ソンギ(金聖基)と書かれている。ゴツゴツした顔面のこめかみのあたりに傷があり、表情だけで相手を黙らせることができそうな雰囲気をもっている。歳は70代後半から80代前半ぐらいだろう。
「こんにちは。ようこそ対馬へ。お疲れではありませんか?」
グニョンは挨拶した。
「お前は誰だ?」
「今日、通訳をやらせていただきますコ・グニョンと申します。厳原の慶尚ホテルで働いている者です。宜しくお願いします」
「通訳? そんなものは必要ない。今日は日本側の誰かと話し合いをしにきたわけではない。俺たちの主張を日本の帝国主義者たちにぶつけに来ただけだ。そもそもわれわれは多少の日本語は理解できるし話すこともできる。それが腹立たしいことだが……。とにかくお前は必要ない」
「でも、何かトラブルがおこった時、スムーズに対処するために私も同行させてもらいます。上司の指示でもありますから」
「まぁいいか。勝手についてくる分には構わん。ただし、邪魔だけはするなよ」
「邪魔をするつもりはありませんが……、地元の住民とのトラブルだけは避けてください」
「お前は俺に指図さしずするのか? 俺は朝鮮戦争で北の魚雷に攻撃されて沈没しかかった味方の揚陸艦ようりくかんから18人を救い出した英雄だぞ。お前はわが国の英雄に指図するつもりか? 地元の住民など俺たちとは関係ない。知るか!」
「厳原の人たちに嫌われたら、私たち慶尚ホテルは営業できなくなってしまいます。どうかトラブルだけはおこさないようにお願いします」
だまれ! さっきも言ったが、俺たちは俺たちの主張をぶつけに来ただけだ。いちいち住民の機嫌をうかがっていられるか!」
いかにも退役軍人らしい態度だ。長年体に染みついた威圧的な雰囲気がにじみ出ている。
グニョンの不安はさらに大きくなったが、グニョンにはどうすることもできなかった。退役軍人たちは2台のバスに分乗して対馬市役所へ向かった。グニョンと上司もその1台に乗り込んだ。
厳原港から市役所までは車で約3分。わずかな時間だったが、バスの車内は息苦しいほど空気が張りつめていた。
市役所前に着き、バスを降りると、早速、退役軍人たちはキムの合図で市役所の正面玄関に向かって一列に整列した。
周囲には、すでに10人ほどのマスコミ関係者と思われる人物が来ている。テレビカメラもある。また、5人の警察官が警戒にあたっていた。しかし、上司が言っていたようなチェックなどは行われず、ただ遠くから見ているだけである。
「警官たち、何もしてないじゃないですか」
グニョンは隣にいる上司に小声でささやいた。上司も小声で応える。
「おかしいな~。ただ見ているだけなのかな……。でも大丈夫。何もおこりゃしないよ」 「この人は何を根拠にそんなことを言うんだろう?」とグニョンは思ったが、何も言わなかった。
退役軍人たちは、一列に整列すると、持っていた袋から、縦約一メートル、横約五メートルの横断幕と三枚の大きな太極旗を出した。横断幕にはハングルで「独島は韓国領土、対馬も韓国領土」と書かれている。退役軍人たちは、その横断幕と三枚の太極旗を広げた。
リーダーのキムは左手に拡声器を持っている。そして、右足を少し後ろへ引き、右こぶしを振り上げて、拡声器越しに大きな声を張り上げる。
「我々は、かつて大韓民国に命を捧げて戦った退役軍人の同志会である。日本の帝国主義者ども、よく聞け! 貴様らが我が領土、独島を自国領と主張するならば、我々はこの対馬を我が領土と主張する。我々は必ずこの戦いに勝利するのだ!」
数人の近所の住民が騒ぎで家から出てきたが、韓国語は理解できない。何を言っているのかわからないが、北朝鮮のニュース番組のキャスターが、アメリカ等を批判する際の独特な抑揚よくようと似ていて、近所の住民たちは「この人たちは何事かに怒っているんだ」とすぐに理解することができた。
キムが一通り自らの主張を言い終えると、キム以外のメンバーも右足を後ろに引き、握った右拳を突き上げる準備をした。それを確かめたキムは再び大きな声で拡声器越しに叫び始めた。
「独島は大韓民国の領土だ!」
「独島は大韓民国の領土だ!」
メンバーが復唱する。シュプレヒコールが始まった。
「対馬も大韓民国の領土だ!」
「対馬も大韓民国の領土だ!」
ふたつのフレーズが10回ずつくり返された。いつの間にか周囲に集まった近所の住民の数は100人を超えるほどになっていた。グニョンは不安が現実にならないことを祈るしかなかったが、今のところ、周辺住民は離れた場所からキムたちの行動を見ているだけであった。
10回ずつのシュプレヒコールが終わると、退役軍人たちは持っていた横断幕と太極旗を地面に置いた。そして、それぞれがポケットから小刀を取り出した。
「あっ、危ない!」
グニョンは止めに走ろうとした。同時に警戒にあたっていた警察官たちも駆け寄ろうとしたが、間に合わなかった。
退役軍人たちは、各々おのおのき手の人指し指を小刀で傷つけた。皆、指から血を流している。そしてその血で、持参した横断幕と太極旗に自分の名前とともに「独島はわが領土」と記すと、ハンカチで血がしたたる指を包んだ。退役軍人たちは、グニョンが驚くほど冷静に、素早く一連の動作をやり終えた。
メンバー全員が持っていた小刀を再びポケットにしまい込むと、リーダーのキムが持っていた袋から日章旗、すなわち日の丸を取り出し、横にいたメンバーがライターで火をつけた。燃えだした日の丸を他のメンバーに渡すと、キムは再び拡声器を手にして、大声で叫びだした。
「日本の帝国主義者よ。お前たちの行いは必ず罰せられる時が来る。この焼け落ちていく旗のように、お前たちの誇りもいつか必ず灰となって消えてしまうのだ!」
その時、周囲を囲んでいた人垣の中からひとりの男性が出てきた。
「お前たちはバカか!」
甲高かんだかい声で叫ぶその男性を、グニョンはどこかで見たことがある人だと思ったが、思い出せなかった。しかしそれどころではなかった。今日のグニョンの仕事は通訳だ。あわててその男性とキムの間に入った。そして伝えたくはなかったが、そのままをキムに韓国語で伝えた。キムはグニョンの通訳を聞くまでもなく、男性の言葉を理解しているようだった。表情は今日一番けわしいものになっていた。しかし、キムが言葉を発する前に、その男性が続けて言った。
「対馬でそんなバカなことをして何の意味があるんだ! どうせやるなら東京へ行け! 国会議事堂の前かかすみせきでやれ!」
念のためにグニョンがキムへ伝える。
「お前は何者だ?」
キムが冷静さをよそおいながら、グニョンに見せたような威圧的な態度で言い放った。グニョンは日本語で男性に伝えた。
「俺は善良な日本国民のひとりだ。今日は市長に用があって福岡から飛行機で来た。さっきそこでタクシーを降りたら、この馬鹿げた大騒ぎだ。こんなことで俺のふるさとをけがすんじゃない! それから、ねんために言っておくが、対馬は絶対に日本だ。歴史上も国際法上も! お前たちは日本人に、『竹島はともかく、対馬は日本だ』って、言わせたいんだろうが、そうはいくか! こんな不毛なことは止めて、とっとと韓国へ帰れ!」
周囲を囲んでいた近所の住民らからまばらな拍手がおこった。グニョンは恐る恐る男性の言葉をキムに通訳した。
「お前がそう思うのならそう思っていればいい。ただ、お前たち日本人が朝鮮半島や中国でしてきたことを我々は決して忘れない。そのことだけは覚えておけ」
キムはグニョンが拍子抜けするほど冷静に言葉を返すと、他のメンバーたちにバスへ乗り込むよう手で合図した。グニョンもキムの言葉を男性に伝え、男性に軽く会釈えしゃくしてバスに向かった。

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