語り継がれる鉄腕、享栄商業の近藤金光投手
1934年(昭和9年)、日本が軍靴の響きを強め、やがて来る激動の時代へと向かう中、甲子園の黒土の上では、後世まで語り継がれる1つの伝説が生まれようとしていました。それは、その腕が鋼鉄でできているかの如く、投げても投げても壊れぬ持久力でマウンドに立ち続けた享栄商業学校(現・享栄高校)の近藤金光投手。この年、春の選抜中等学校野球大会(センバツ)で近藤が見せた「鉄腕」ぶりは、単なる1人の投手の活躍に留まらず、時代の精神を映し出す鏡でもありました。中京商対明石中や坂東対村椿のように多くの人に知られる存在ではありませんが、本記事では、この驚異的な記録を軸に、近藤金光という投手の死闘の軌跡を辿り、その偉業が持つ歴史的意味を掘り下げていきます。
5試合で60イニングという超ハードな投球回
近藤投手の「鉄腕伝説」は、まさに死闘の連続によって築かれました。彼はこの大会でチームが戦った全5試合、実に60イニングの全てを1人で投げ抜いたのです。その軌跡は、過酷という言葉では生ぬるい、人間の限界に挑むかのような壮絶な戦いの連続でした。
死闘の連続、延長19回の激闘
享栄商業の快進撃は、1回戦の静岡商業を7-0と、近藤投手の完投で順調に始まりました 。しかし、2回戦の徳山商業戦で試練が訪れます。試合は両チーム一歩も譲らぬ投手戦となり、規定の9回では決着がつきません。10回、15回と進み、選手たちの疲労は極限に達しています。それでも近藤投手はマウンドを降りません。そして迎えた延長19回、ついに享栄商業が勝ち越し、5-3でこの長きにわたる激闘に終止符が打たれたのです。この時点で、近藤投手は既に2試合で28イニングを投げていました。
センバツ史上初の引き分け再試合
準々決勝の和歌山中を10-1と退けた後、伝説のクライマックスが訪れます。準決勝の相手は強豪・浪華商業(現・大阪体育大学浪商)。この試合の近藤投手と浪華商業のエース、納家米吉との投げ合いは、息詰まる投手戦となりました。両投手とも一歩も引かず、スコアボードには0が延々と並び続けます。そして延長15回を終えたところで日没サスペンデッドゲームとなり、0-0の引き分けに終わりました。これは、センバツ史上初の引き分け再試合という歴史的な出来事でした。
翌日の再試合、連投の疲労が残る中で近藤投手は再びマウンドに上がりました。しかし、奮闘及ばず2-4で敗れ、享栄商業の決勝進出の夢は絶たれました。この2日間の浪華商業戦で、近藤投手は合計24イニングを投げ、1回戦からの総投球回数は、ついに60イニングに達したのです。これは大会新記録であり、彼の「鉄腕」ぶりを象徴する不滅の金字塔となりました。近藤投手との死闘で疲弊した浪華商業は、翌日の決勝戦で延長の末に東邦商業に敗れており、近藤投手の粘投が大会の行方を左右したとも言えるでしょう。
なぜ「鉄腕」は生まれたのか
近藤金光投手の60イニングという記録は、彼個人の類稀な体力と精神力だけでは説明できません。それは、現在では完全にアウトと言われるであろう当時の野球の常識と、時代が求めた精神性の産物でありました。
エース完投が常識だった時代
1930年代の野球において、エース投手は文字通りチームの命運を一身に背負う存在でした。投手分業制という考え方はまだなく、エースが全試合を完投することが当然とされていました。マウンドは一人の英雄が守り抜くべき城であり、降板は敗北か負傷を意味しました。近藤投手の連続登板は、この時代の「エースの宿命」を極限まで体現した姿だったのです。
時代が求めた「精神主義」
さらに重要なのは、そのパフォーマンスが当時の社会の価値観と深く共鳴したことです。1934年の日本は、国家主義と軍国主義の色を濃くしていく時代でした。社会全体で「精神力」が物質的な困難を凌駕するという考え方が称揚され、忍耐、克己、自己犠牲といった徳目が至上の価値とされていました。この文脈において、近藤金光投手がマウンドで見せた姿は、単なるスポーツ選手の奮闘ではありません。疲労に顔を歪めながらも黙々と腕を振り続ける彼の姿は、いかなる困難にも屈しない「大和魂」の象徴として、人々の目に映ったのです。彼の「鉄腕」は、一個人の身体的な偉業であると同時に、時代が求めた精神的理想像そのものでもあったのでしょう。
伝説のその後と謎
甲子園の歴史には、近藤投手のように記録で語られる選手もいれば、鮮烈な記憶を残す選手もいます。同じ1934年のセンバツ大会には、近藤投手とは対照的な輝きを放った天才がいました。野球ファンなら誰もが知っている沢村栄治という伝説の投手です。沢村投手とは対照的なのがこの記事の主役である近藤金光投手。近藤投手があまり知られていないのは、甲子園を去った後の「鉄腕」の足跡がほとんど分からないからです。
閃光を放った伝説の名投手
近藤の持久力が「静」の伝説ならば、「動」の伝説を創ったのが、京都商業の沢村栄治投手です。その爆発的な「剛腕」で、既に前年から甲子園を沸かせていました。1934年センバツ大会初戦の堺中戦では、17個の三振を奪い、さらに相手の先発打者全員から三振を奪う「先発全員奪三振」という離れ業をやってのけました。しかし、続く2回戦で明石中に1-2で惜敗。残念ながら早々に甲子園を去りました。この大会の記録の上では60イニングを投げ抜いた近藤投手が沢村投手を遥かに凌駕しますが、後のベーブ・ルースやルー・ゲーリックらとの対戦など、後世により大きな伝説として語り継がれたのは沢村投手でした。
甲子園後の近藤金光投手
下の表は、近藤金光選手の後輩にあたる元プロ野球選手です。主要な選手だけを示しましたが、400勝投手「カネヤン」こと金田正一投手をはじめ、プロデビュー戦でノーヒットノーランを達成した近藤真一投手、2000本安打を達成した現役の大島洋平選手など、そうそうたるメンバーが並んでいます。
| 選手名 | 卒業/中退年 | ポジション | 所属球団 |
|---|---|---|---|
| 金田 正一 | 1950年 (中退) | 投手 | 国鉄スワローズ, 読売ジャイアンツ |
| 大宮 龍男 | 1973年 | 捕手 | 日本ハムファイターズ, 中日ドラゴンズ, 西武ライオンズ |
| 藤王 康晴 | 1984年 | 内野手 | 中日ドラゴンズ, 日本ハムファイターズ |
| 近藤 真一(後に真市) | 1987年 | 投手 | 中日ドラゴンズ |
| 高木 浩之 | 1991年 | 内野手 | 西武ライオンズ・埼玉西武ライオンズ |
| 神野 純一 | 1989年 | 内野手 | 中日ドラゴンズ |
| 武山 真吾 | 2003年 | 捕手 | 横浜ベイスターズ, 埼玉西武ライオンズ, 中日ドラゴンズ |
| 大島 洋平 | 2004年 | 外野手 | 中日ドラゴンズ |
彼らの偉大な先輩である近藤金光投手ですが、残念ながら高校卒業後の消息について、明確な記録が残されていないようです。当然ながら親族の方々はご存じだと思いますが、AIを使って調べても分かりませんでした。沢村栄治投手が高校を中退してプロ野球へ進み、大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)のエースとして前述した日米野球で好投、その後、戦争でその命を落としたという明確な足跡が残っているのに対し、享栄商業の近藤金光投手の高校卒業後の経歴について、情報が得られないというのはとても残念なことです。しかし、彼が打ち立てた5試合60イニングという不滅の記録は、甲子園の歴史、そして高校野球ファンの記憶の中で、これからも永遠に語り継がれていくことでしょう。
まとめ
1934年(昭和9年)という年は、日本が軍国主義へと傾斜を深めていく激動の時代の入り口にありました。室戸台風が関西を襲い 、社会全体が不安と緊張に包まれる中、人々は甲子園の若人たちのひたむきなプレーに、逆境に屈しない強靭な精神を見出し熱狂しました。享栄商業の近藤金光投手が見せた5試合60イニングという「鉄腕」ぶりは、エースが全試合を完投することが当然とされ 、いかなる困難にも屈しない「精神力」が至上の価値とされた時代の精神性を、まさに体現した姿でした。彼の投球は、時代の理想像そのものであり、だからこそ人々の心を強く揺さぶったのだと思います。対照的な輝きを放った沢村栄治投手の伝説や、その後の消息が不明であるという謎も含め、近藤金光という投手の物語は、昭和初期という時代の光と影を色濃く映し出しているように思います。彼の記録は、個人の偉業であると同時に、時代の記憶そのものとして、これからも語り継がれていくべきでしょう。

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