39
起訴されても阿比留が市長を辞職することはなかった。法律上、起訴されても刑が確定するまでは阿比留が失職することはない。議会が不信任決議を行った場合は、市長は辞職するか議会を解散するか選択しなければならないが、議会は解散を恐れて、辞職勧告決議に留まった。阿比留が辞職しなければならなくなるのは住民によるリコールが成立した場合のみである。リコールに必要な有権者の3分の1以上の署名を集める動きはあるものの、住民の中には阿比留が無実を訴えていることを報道で知り、署名を拒否する人も少なくなかった。署名運動が展開される裏で、松尾が厳原をはじめとする人口が多い地域の一軒一軒の家を訪ね、阿比留が無実であることや、立亀岩で福岡県警の刑事と会い、今後、阿比留が無実である証拠が必ず見つかるであろうことを、丁寧に説明して歩いたことが大きかった。次の市長選挙を睨んで署名を集める人たちよりも、多くの住民は、長年対馬の少年野球の発展に寄与してきた松尾の言葉を信じたのである。リコールに必要な署名は集まらなかった。
阿比留の失職は避けられたが、国境リーグに対する風当たりは日に日に強くなっていた。出資を辞退する出資者が続出したため、辻村の声掛けにより、10月15日、休日を利用して、出資者への説明会が福岡市のヤフオクドームに隣接したホテルで開かれることになった。名目上は、国境リーグ理事長代行である三島が出資者へ呼びかけて開催される説明会であったが、実際に動いていたのは橋本である。橋本は、会場の手配、出資者への説明会開催の案内、出資することのメリットをまとめた資料の作成など、国境リーグ事務局で働くグニョンらの手を借りながらほとんどをこなした。グニョンは、橋本を手伝いながら、表面上は以前と変わらず橋本と接していたが、ウソンの事故死、阿比留の逮捕に関わっている可能性がある橋本に疑念を抱いていた。橋本を手伝っていく中で、橋本の仕事の早さや思考の鋭さに感心し、その姿が、逆にグニョンの疑念を強くしていったことも事実である。「この人なら完全犯罪をやってしまうかもしれない……」と。
説明会当日、松尾も説明会会場に足を運んだ。三島に「会場にいてくださるだけでいいですから……」と懇願されたのである。無理もない。橋本が資料を用意してはくれるものの、多くの出資者を前にして、「阿比留市長の逮捕と国境リーグの運営は無関係」という説明を繰り返し、国境リーグを運営していくことの意義を、自らの野球に対する情熱と共に訴えることしかできないと考えていた三島は、不安で仕方なかったのである。元スター選手で知名度が高く、俳優の経験もある三島でさえ大きなプレッシャーを感じるほど、この説明会は重要であった。理事長の座から降りたとはいえ、松尾は、三島に頼まれるまでもなく、説明会に行くつもりであった。
説明会会場は、結婚披露宴の控室として使われるような部屋である。3人がけのテーブルが2列に10個並べられ、正面には70インチの大型モニターが用意されていた。モニターを挟んで右側に三島、橋本、左側に辻村、プサン側の理事であるアン・ソンテが座っていた。松尾は、開始時間キリギリに部屋に入ったが、テーブルの席はすでに埋まっていて、周囲に用意されていた椅子に腰を下ろした。松尾が会場に入ってきた瞬間、すでに着席している出資者の中に、松尾に対して冷たい視線を送る者がいた。松尾が理事長を退任した本当の理由は明らかにされていなかったが、どこからか情報が流れてしまったのかもしれない。それでも松尾は、冷たい視線を気にすることなく椅子に用意されていた資料に目を向けた。
午後3時に始まった説明会では、まず三島が阿比留逮捕によって出資者に不安を抱かせたことを謝罪した。大型モニターを挟んで座っている三島を含む4人全員が立ち上がって深々と頭を下げ、出資者たちに謝意を示した。30秒ほど頭を下げていた4人が頭を上げると、三島以外の3人は着席し、三島が静かに話し出す。
「今回の阿比留市長の逮捕、そして起訴については現段階では、何も真相が解明されていません。新聞等の報道によると、阿比留市長は犯行を否認しているそうです。法律では、有罪が確定するまでは市長の職を失うことはなく、今日現在も阿比留氏は対馬市長という立場にあります。しかし、阿比留市長が有罪になるのか、無罪になるのかということと国境リーグは全くの無関係です。国境リーグは、日韓両国で野球を愛し、野球に情熱を注ぐプレイヤーたちに活躍の場を提供し、次のステップへ羽ばたく機会を与えるべく誕生した独立リーグです。選手たちは素晴らしいプレーを見せてくれます。彼らが見せてくれる全力プレーは、衛星放送やインターネット中継で日本全国、いや全世界の人々を魅了し……」
「ちょっと待ってください!」
最前列に座っていた大口の出資者であるシルバーホテルグループの相馬社長が、三島の話を遮った。
「三島さん、あなたね。今日は何のために我々をここに呼んだんですか? 選手たちが全力プレーを見せてくれるとか、どうでもいいとまでは言いませんが、はっきり言って、我々出資者には関係ないんですよ。我々にとっては、このまま国境リーグに出資を続けることにどんなメリットがあるのかってことを聞きにきたんです。先程、あなたは、阿比留市長の逮捕と国境リーグは全くの無関係だとおっしゃった。あなた方からすればそうかもしれない。でもね、我々出資者にとってはそうではないんですよ。殺人事件の被告人となった人が市長をやっているところで運営されている独立リーグに出資することは、企業イメージが大きく下がってしまうことは疑いようがない事実なんです。今は、何かあると、インターネットですぐに叩かれる世の中なんです。そのリスクを冒してまでも出資するメリットは何なのか、それをまず聞かせてください」
黙って聞いていた三島だが、相馬社長の問いかけには答えることができなかった。20秒ほどおどおどした三島の様子を見ていた松尾が、助け船を出そうと、手を挙げかけたときだった。辻村の甲高い声が響いた。
「相馬さん、さすがだね~」
椅子に座っていた辻村は、軽く拍手しながら立ち上がった。そして、手で合図して三島を座らせ、自らが一歩前へ出てきた。
「相馬さんがおっしゃることは出資者として当然。今の段階ではリスクの方が大きいと考えても仕方ないでしょう。でもね、国境リーグは本当にビジネスチャンスなんです。ごちゃごちゃ説明するより、まずはこれを見てもらいましょう。これはね。お渡しした資料にはありません。トップシークレットですから。数分後には、みなさん喜んで出資するって言うと思いますよー。橋本!」
辻村に指示された橋本がモニターの電源を入れた。しばらくしてモニターに映像が流れ始めた。上空から浅茅湾を撮ったドローンの映像にジャズ風の心地よい音楽を乗せたものである。
「これね。正式なものは後で作り直しますけど、まずは見てください」
映像のオープニングを見ながら辻村が言った。映像はしばらく浅茅湾を上空から映していたが、浅茅湾の西の端まできたところで上昇し始め、対馬全島の形が分かるところまで上昇すると回転し、下降してきた。すると、浅茅湾岸に野球場と隣接する巨大なホテル風の建物が現れた。CGによって合成されたものである。ホテルの横から浅茅湾に向かってジェットコースターが走っている。野球場のバックスクリーン裏には巨大な観覧車が見え、浅茅湾ではパラセーリングや水上スキーを楽しんでいる人たちがいた。映像は海面すれすれから陸上へ移り、野球場へ入っていった。グラウンドは天然芝だ。観客席は、寝ころがって観戦できるシートや、テーブルがついたボックス席、バーベキューを楽しみながら野球観戦できる席、ハンモックに横になって揺られながら観戦できる席など、工夫を凝らした席が多く用意されている。一般席もひとつひとつの席がゆったり作られており、大柄な人でも窮屈な思いをすることなく観戦できる。そしてひとつひとつの席には小さなモニターが設置されていて、リプレイや企業の広告が流されている。
野球場を出た映像は、横のホテル風の建物の中へ入っていく。多くの人で賑わう巨大なエントランスを抜けると、エレベーターホールがあり、映像は20階の最上階まで上がった。最上階にはスイートルームがあり、そのひとつに入る。広々としたリビングルームには高級家具が並び、両サイドには天蓋つきのベッドが置いてある寝室が2つある。双方の寝室にはバルコニーがあり、大きなジャグジーが置いてあった。バルコニーからは野球場が見え、ジャグジーには野球の試合を映すモニターが置いてある。スイートルームを出た映像は再びエレベーターに乗り一階に降りた。一階に降りると、エントランスとは逆方向に進む。そこには天井、床、壁の全面に対馬の春夏秋冬の景色を表した映像が流れる廊下が続き、突き当たりには巨大な自動ドアがあった。そして自動ドアが開くとそこは……。
カジノ。
天井が高い巨大なホールの入口付近には、スロットマシンが並び、奥のテーブルではルーレットや、ディーラーを前にしてブラックジャックが行われている。興じる人々はアジア系だけでなく、世界各国から対馬へやって来た人々だ。男性はタキシード、女性は豪華なドレスにキラキラした装飾品を身につけている。皆、笑顔で特別な時間を楽しんでいるようだ。ドリンク類を運ぶ従業員もまた正装している。ホールの奥には10台のモニターが並ぶブックメーカーがあった。それぞれのモニターには海外の野球やサッカーの試合が流されている。カジノがあるホールをひと回りすると、映像はそこで終わった。
映像が終わると、辻村が語り始める。
「ここにいるみなさんはもちろんご存じだと思いますが、来年、国会でIR、統合型リゾート関連法案が成立します。先のことはわからないとおっしゃる方がいるかもしれませんが、この法案は確実に成立します」
「反対意見も多いはずだが……」
相馬社長が呟くように言った。
「確かに反対意見も多い。『依存症対策は?』『治安が悪くなる!』ってね。でも今の国会は通るんですよ。与党が強すぎるから。偉~い学者先生たちが『憲法違反だ!』って言って、たくさんの人たちが国会前でデモしても安保法制が成立しちゃうんだからね。良い悪いは別にして、それが現実なんですよ。新たな甘い蜜がじゃんじゃん溢れ出てきそうなIRが通らない訳がない。間違いなく成立します。IRはね」
辻村は自信たっぷりに言い切った。
「そうかもしれないな……」
再び相馬社長が呟く。
「いいですか、みなさん、10年後、浅茅湾には世界中から観光客が押し寄せます。国境リーグはその先駆けとして来年開幕するんです。盛り上がりますよ~。日韓戦ってのは盛り上がるじゃないですか~。その盛り上がりの先に何があるのか、もうみなさんはおわかりですね?」
辻村があおるように言った言葉に、会場にいたほぼ全員が反応した。
「IR……」
その後、およそ1時間にわたって辻村は、浅茅湾リゾート計画について雄弁に語った。説明会に参加した出資者たちは、全員が辻村の話に聞き入った。松尾は、「まるで通販番組を観ているようだ」と思った。質問をする者もいたが、辻村は、質問ひとつひとつにすばやく尚且つ分かりやすく回答した。その間、三島は一言も口を開くことはなかったが、最後に辻村に促され、挨拶をして説明会は幕を下ろした。会場から出て行く出資者たちは、辻村の話を聞いたことで、目を輝かせて帰っていったように、松尾には感じられた。
出資者たちが会場から出て行った後、辻村と橋本、アンの3人は部屋を出ていった。松尾は残った三島に近づいて声をかけた。
「三島さん、お疲れさまでした」
三島を労う。
「松尾さん、来てくれてありがとうございます。私は役に立てませんでしたが、辻村さんのおかげで何とか出資者たちも納得してくれたみたいで良かった。ホッとしました」
三島は心から安堵しているように見える。
「三島さんは、辻村から何もお聞きではなかったんですか?」
「はい。具体的なことは聞いていませんでした。ただ、『私にまかせてもらえれば大丈夫だから』とは言われていました」
「なるほど……。それにしてもカジノとはねぇ……。私は冷静に辻村の話を聞いていたつもりなんですが、本当に対馬にあんなカジノがつくれるんですかね。出資者の方々は、本気でできると思ったようですが、世の中で言われてるように依存症対策をどうするかは大きな課題だと思いますし……。対馬では娯楽が少ない分、パチンコにはまる人が多くて、借金を抱えて苦しんでる人も少なくないですからね。ここだけの話、プライムの直営店についても不安があると私は思ってますから。それがカジノってなると、考えただけで恐ろしいことになりそうな気がしますよ」
「私は現役のときからギャンブルには全く興味がなかった人間なんで、カジノに……」
三島が話している最中に辻村がひとりで戻ってきた。
「おー、前理事長、来てくれてましたねー」
「三島さんに頼まれたからな。来て良かったよ。よくこの短い期間であんな映像を作ることができたなぁ。やっぱり辻村はすごいって改めて感心したよ」
「またまた~、褒めても何も出ませんよ~。映像はうちの会社のCG担当スタッフに1週間でつくらせました。『ほかの仕事はしなくていいから、とにかくつくってくれ』って言ってね。会社の業務じゃないんで、バレたら大変なんで、これでお願いしますよ」
辻村は右手の人指し指を口に当てながら言った。
「映像にあった野球場のアイデアも辻村が考えたのか?」
松尾が聞いた。
「そうですよ。特にね、座席のモニターね。あれはいいでしょ」
「でもお金がかかるんじゃないですか?」
三島が聞いた。
「そりぁそれなりにかかりますよ。でもね、モニターをつけると、そのモニターでCMを流せるんですよ。そのCM契約を上手いことやればいけると思うんですよ。俺もね、そこのヤフオクドームで野球観戦することがあるんですけど、常に野球に集中してるのって疲れるじゃないですか。横の人とおしゃべりしながら、ビールでも飲みながら観戦したいですよね。そうすると見逃してしまうことあるでしょ。ホームランとかね。歓声で気づいても、もうボールはスタンドみたいな。打った瞬間を見逃しちゃうことってありますよね~。場内の大型ビジョンでリプレイを流すこともあるけど、それを自分が見たいタイミングで見られれば嬉しいじゃないですか~。それにね。あのモニターをうまく使えば、野球見ながらブックメーカーに投票することなんかできると思ってね。ひとりひとりの打席の結果を、その試合を観戦してる人が予想するみたいな感じで。面白いと思いません? もちろん法律がいろいろ変わってからですけどね」
自慢げに話す辻村の顔を眺めながら松尾が口を開く。
「本当に辻村の頭の中はアイデアの宝箱だな。前も阿比留や三島さんに言ったけど、商売で成功する人間てのは辻村のような人間なんだなって思うよ……。あっ、そろそろ行かないと飛行機に乗り遅れる。それじゃ、辻村、三島さん、俺はこれで失礼するよ」
「そうですか。今日はありがとうございました」
三島が改めてお礼を言う。辻村はニコニコしながら軽く右手を挙げた。松尾は、辻村に対して、一番聞きたかったこと、「お前、阿比留を嵌めたのか?」という一言をあえて口にしなかった。言いたくて言いたくて仕方なかった。言って辻村を責めたかったが、辻村が正直に言うわけはなく、その言葉を口にしてしまうことで失うものがあることを理解していたからである。ホテルの部屋を出た松尾は、右の拳に力を入れた。悔しくてたまらなかった。
ホテルを後にした松尾は、空港へ向かう地下鉄に乗った。座席に座って腕組みをし、何かを悩んでいる様子であったが、地下鉄が福岡空港のふたつ手前、博多駅に着くと、意を決したように地下鉄を降りた。そして、妻の幸子に電話をかけた。
「あー俺だ。今夜は帰らないから。明日の昼の飛行機で戻る」
40
松尾が対馬へ戻ってきたのは翌日の午後だった。松尾が自宅へ戻ると、海人が訪ねてきていた。
「おう海人、どうした?」
リビングのソファに座っている海人に松尾が声をかける。
「監督、こんにちは」
海人にとって、松尾はいつまでも「監督」なのである。
「お前、練習は?」
海人が座っているソファの向かい側のソファに腰を下ろしながら松尾が訊ねた。
「今日は午前中だけ合同練習で、午後は自主練習なんです」
「そうか。調子はどうだ?」
「はい。今の俺は人生最高の状態です。フォークを覚えたことでピッチングの幅が広がりました。この前の練習試合では、5回を被安打2、四球2、1失点でしたが、10個も三振をとれました」
「おーそうか。5回10奪三振はすごいな」
「プロになってからの俺に一番欠けてた『自信』が今の俺にはあります」
「それは頼もしいな」
笑顔を見せる松尾に対し、海人は真顔になって本題に入った。
「監督、昨日の説明会の話を聞かせてください。俺、そのことが心配で心配で……。昨夜も来てみたんですが、おばさんから『今日は帰ってこないよ』って聞いたんで、余計に心配になってきました。国境リーグは大丈夫ですか?」
海人の目は、松尾から「大丈夫だ」という言葉が出てくるのを待っているようだ。
「ああ、大丈夫だ。昨日の説明会で出資者たちは納得して帰って行ったよ」
松尾の言葉に、海人は心の底から安堵した表情になった。
「そうですか! あ~良かった~。これで練習に集中できます」
「お前、練習に身が入ってなかったのか? 余計なことは考えないで、練習に集中しなきゃダメじゃないか」
「でも国境リーグが無くなっちゃったら、俺たち選手は完全に宙ぶらりんですから……。ウソンのためにも何としてでも来年の開幕戦のマウンドに立ちたいんです」
「そうだな。そういう気持ちは大事だな。お前たち選手諸君に心配かけて、本当に申し訳ないと思う。理事長でいられなくなった俺の責任が一番重いと思ってるよ」
「そんなことないです。市長が殺人容疑で逮捕されたことが原因です」
「それはそうなんだが……。阿比留はやっちゃいないんだぞ」
「それじぁ誰が犯人なんですか?」
「俺にはわからん。だが、阿比留が犯人でないことだけは間違いない。俺にはそう言い切れるだけの自信がある」
「市長に被害者の記者の人を殺す動機があって、物的証拠もあるらしいじゃないですか。市長には監督の知らない一面があったってことじゃないんですか?」
「そこなんだがな、海人、グニョンと一緒に立亀岩で会った刑事さんが言ってたんだが、阿比留が犯人であるように仕向けられたとしか思えないほど、いろんなことが出来すぎてるんだよ」
「立亀岩で刑事さんに会ったことはグニョンから聞きました。グニョンは辻村さんと橋本さんが市長を犯人に仕立てたって言い出して……。ウソンも、辻村さんに突き落とされたのかもしれないとまで言い出して……。俺、辻村さんにはホント世話になってるんです。国境リーグも辻村さんに助けてもらいましたし……、『絶対にそんなことない!』って、グニョンと大喧嘩しちゃいました。あれからグニョンとは口を利いてないんです。監督もグニョンと同じように思ってるんですか?」
海人は訴えるような目で松尾を見ながら言った。
「正直に言うとな、海人……、俺もグニョンと同じ考えだ」
「そんなことないです!」
海人の訴えるような目が怒りに変わっていた。松尾は冷静に諭すように海人に言った。
「俺とグニョンの考えが正しいのか、それとも間違ってるのかは、これからわかると思う。阿比留が犯人でなければ誰が犯人なのか、刑事さんが言ってたが、辻村も橋本くんもしっかりしたアリバイがあって犯行は不可能だそうだ。いずれあの上林っていう刑事さんが真相を解明してくれると俺は信じてるよ。それにしても辻村って奴はすごいな。お前は親しくしてるからよく分かってるんだろうけど、あいつの発想力には、俺みたいな田舎者で野球しか知らないような人間は付いていけないぞ。昨日の説明会もほとんど辻村の独り舞台だったからな」
「辻村さんは本当にすごい人です。俺は尊敬してます」
「お前は、辻村が東京にいたときのことは聞いたことがあるのか?」
「東京にいたときですか? はぁ……、ないです。辻村さんが話してくれるのは山猫ネットの会社を立ち上げてからのことだけですね」
「やっぱりお前もそうなのか……。高校の同級生だった阿比留も、ほかの友人たちも辻村が東京にいたときのことはみんな知らないらしいんだ。誰かが聞いてもはぐらかしてるらしいぞ。三島さんが現役のときに辻村らしい人間と会ったことがあるそうだが、名字も違っていて髪も長かったそうだ。だからその人が辻村かどうかもわからない。三島さんが聞いても『違う』って言うらしいんだ」
「辻村さんのような人にも忘れてしまいたいような辛いことがあったんじゃないですか。俺はそう思います」
辻村を慕っている海人は、自信を持って言い切った。
「そうだな。そうかもしれないな……」
松尾が同意してくれたことで海人の険しい表情が少し穏やかになった。
「そうですよ。辻村さんだって人に言いたくない過去のひとつやふたつはありますよ。俺にとっての高校野球最後の1球のような……」
「お前、まだ引きずってるのか? お前のトライアウトの後、ゲンちゃんと話したんだが、お前はまだ高校野球最後の1球を引きずっているって……」
「はい。トライアウトのときまではそうだったと思います。自分ではわからなかったんですが、無意識に腕が振れなくなってしまうんです。でも、今は違うと思います。ウソンが力を貸してくれて、どんな場面でもボールに自信が持てるようになりました。まだ、真剣勝負の場で投げていないんで、確信はないんですが、来年の開幕戦では必ず人生最高のピッチングをする自信があるんです」
「そうか、それは楽しみだな。海人がどんなボールを投げるのか、俺も必ず球場で見てるからな」
「はい! 見ていてください!」
その後、松尾と海人は、時間を忘れて野球談義に花を咲かせた。夕方になり、松尾の妻、幸子が「晩ご飯、食べて行きなさい。グニョンも呼ぶから」と海人を誘ってくれたが、その日の夜は、チームの仲間との約束があり、海人は泣く泣く断った。幸子は、海人とグニョンが大喧嘩をして口を利いていないということを聞き、仲直りのきっかけをつくってやろうとしたのである。海人とグニョンの冷戦状態は、しばらく継続することになった。
41
国境リーグの選手たちの合同練習は、10月いっぱいで終了した。翌年2月、4つのチームごとに別の練習場所でキャンプインし、3月に開幕戦を迎える。11月から1月は自主トレの期間である。
海人は、自主トレの期間に入ってから、徹底的に走り込み、下半身の強化に努めた。自主トレ期間の初めのころは、高校時代の女房役を相手に投球練習をすることもあったが、ボールを受ける元女房役がびっくりするほど正確なコントロールを身につけていた。ほとんどのストレートは、キャッチャーが構えたミットを全く動かすことなく、ボールがすいこまれていく。計測したわけではないが、球速は軽く150㎞を超えているように見えた。
そしてさらなる驚きはフォークボールの変化である。合同練習が行われていた期間中も、海人はチョ・ドンウォンから伝授されたフォークボールに磨きをかけてきたが、自主トレの期間に入ってから、海人のフォークボールはさらに一段階上がった。元女房役によると「縫い目が見える」というのだ。ストレートと同じ腕の振りで放たれたボールは無回転のままミットに向かってくる。そして不規則な変化を見せるのである。左右どちらかに曲がったり、急激に沈んだり、曲がりながら沈んだり、変化する方向はまったく予測できない。まさにナックルボールそのものだった。変化する方向を海人がコントロールしているわけではないため、キャッチャーが捕るのは至難の技である。海人自身が「よく腕が振れた」と感じたときほどボールはより変化しているようだ。キャッチャーが捕れないボールを武器にすることは難しいかもしれないが、「国境リーグのキャッチャーなら、何とかしてくれるよ」と、元女房役は海人を励ましてくれた。
11月26日、日曜日の午前中であった。海人が、日課である観光道路のランニングから自宅へ帰ってきたとき、自宅の前にジャージ姿の人がいた。手にはキャッチャーミットを持っている。横浜DeNAベイスターズのピッチングコーチ、中村元雄である。前年の12球団合同トライアウトの際、ひと芝居うって海人を極秘にテストしていたあの中村である。中村はシーズンが終わり、親友である松尾のところへ釣りを目的に遊びに来ていた。松尾から海人のピッチングの変化を聞き、ボールを受けてみたいと、海人を訪ねてきたのである。
「中村さん! どうしたんですか?」
海人は、思いもよらない中村の訪問にとまどっていた。
「元気そうだな。松ちゃんから海人がすごく良くなったって聞いたから、お前のボールを受けてみたくなったんだよ。どこか場所あるか?」
「あ、ありますけど……、そこの公園でよければ……」
「そうか。それじゃやろう! ボールとグローブを持ってきてくれ」
「はい!」
海人は一旦自宅へ入り、玄関に置いてあったグローブとボールを取り、スパイクを履いて出てきた。そして海人と中村はすぐ近くの公園へ向かった。
フェンスで囲ってあるこの公園は、海人が幼いころから野球をして遊んだ公園である。ピッチング練習ができるように、18.44m開けてピッチャープレートとホームベースが置いてある。高校生のときに海人が勝手に置いたものであるが、誰も文句を言わなかったし、盗まれたりすることもなかった。小学生にとってはピッチング練習をするには長すぎる距離であるが、みんな競ってこの公園へピッチング練習をしにきている。このプレートとホームベースは海人が置いたものであることをみんな知っているからだ。野球に興味を持つ小学生なら、プロ野球選手になった自分たちのヒーローと同じ場所で投げてみたいものである。
海人と中村が公園へやってきたとき、3人の小学生がいた。ひとりがピッチャー、ひとりがキャッチャー、ひとりがバッターになり、軟式野球のボールで遊んでいる。海人たちが公園に入ってきたことにキャッチャー役の子が気づいた。
「上原選手だ!」
あとのふたりもキャッチャー役の子が見ている方を振り返る。
対馬に帰ってきてからの約1年間、海人は1日に何回も町の人から声をかけられた。握手を求められたり、サインをねだられたりすることも多かった。海人は、急いでいるとき以外は、握手やサインの求めに応じてきた。国境リーグの選手になってから、対馬の人たちは、元ソフトバンクホークスの選手として海人に握手やサインを求めるのではなく、国境リーグの看板選手として握手やサインを求めるようになった。握手やサインを求めてくる人たちは、「国境リーグがんばってください」や「来年、ナイスピッチングを期待しています」という言葉を添えてくるのである。海人はそれが嬉しかった。モチベーションを上げていく大きな要素になっていた。
公園にいた3人もすぐに海人の方に駆け寄り、「握手してください!」と言ってきた。海人は快く、3人と順番に握手をすると、ピッチャープレートの方を指さしながら、3人に声をかけた。
「ちょっとあそこ使わせてもらってもいい?」
海人のピッチングを間近で見ることができると理解した3人は、大きく声を揃える。
「はい!」
「君たち、危ないから少しだけ離れて、よーく見ておけよ」
中村は、3人の顔を見ながらそう言うと、ホームベースの方へ歩いていった。それを見て海人もピッチャープレートの方へ向かう。
「海人、俺はお前を待ってる間に体操しといたし、お前は走ってきたばっかりだから、軽くキャッチボールからいこうや」
「はい」
頷きながら返事をした海人は、グローブの中のボールを軽く中村へ投げた。ふたりはしばらくお互い立ったままのキャッチボールを続けたが、海人は少しずつ強く腕を振っていく。
「そろそろいいかな」
中村がそう言うと、海人は大きく頷いた。
「それじゃ、いきます」
「まずは真っ直ぐからだ」
「はい」
大きく深呼吸した後、右足をプレートにかけ、海人は振りかぶって投球動作に入った。そして、指先から放たれたボールは、鋭く回転し、瞬く間に中村が構えるミットに「スパン」という音を立てて収まった。中村は1㎜もミットを動かしていない。
「ナイスボール!」
中村の声が公園内にこだまする。少し離れたところで見ていた3人の小学生たちは、「スゲェ!」「見えなかった……」「ボールが『シュー』って……」とそれぞれ感想を口にする。
「いい真っ直ぐだ」
ボールを返球しながら中村が言う。
「よし今度はここだ。右バッター、アウトロー」
そう言いながら中村は少しだけ右側に寄り、ミットを低く構えた。海人は再び渾身のストレートを中村のミットめがけて投げ込む。「スパン」という音とともにボールは中村のミットに収まった。
「海人、松ちゃんの言う通りだ。本当に良くなってるぞ。今のお前の真っ直ぐは1軍レベルだよ。真っ直ぐって分かってても詰まらされるボールだ」
「本当ですか?」
「ああ本当だ。日常的に1軍のエース級のボールを見てる俺が言うんだから間違いない」
「ありがとうございます!」
海人は心の底から嬉しかった。1年前にプロ失格の烙印を押された中村から「1軍レベル」と言われたのである。天にも昇る気持ちになった。それから海人は、中村のミット目掛け、変化球も交えて30球ほど投げ込んだ。投げるたびに見ている小学生たちの「おー」というどよめきが起こった。中村が「このくらいにしておくか」と腰を上げかけたとき、海人が言った。
「中村さん、もう1球だけ見てください。フォークを投げます」
中村が怪訝そうな顔になった。
「お前、フォークは投げないんじゃなかったか?」
「覚えたんです。まだ完全ではないと思いますが、俺の一番の武器になるかもしれません」
「よし分かった。投げてみろ!」
そう言うと、中村はボールを海人へ投げ返した。ボールを受け取った海人は、グローブの中に右手を入れ、人指し指と中指でボールを挟んだ。そしてストレートを投げるときのピッチングフォームとほぼ同じように、ボールを投げた。するとボールは無回転のまま中村のミットをめがけて進んでいたが、途中から急に中村の右側に曲がりながら落ちた。
「うわぁ!」
中村は大きな声を出して後ろへのけぞる。ボールを受けることができなかった。小学生たちは、驚いた表情で、口々に「スゲェ!」を連呼している。
「お前、ナックルじゃないか!」
中村は驚きの表情で言った。
「違うんです。フォークなんですが、無回転でナックルみたいに変化するんです」
「そうか……。もう一球投げてみろ」
「はい」
中村はボールを拾って海人へ投げ返し、腰を下ろしてミットを構えた。
ボールを捕った海人は、もう一度、中村の構えたミットめがけてフォークを投げる。今度は中村の左側に曲がりながら落ちたため、中村はキャッチすることができた。
「確かに無回転だな……。今のはボールの縫い目が見えたような気がする」
「はい。韓国チームのチョ・ドンウォンさんにフォークを教わって練習していたんですが、最近、無回転フォークを投げられるようになったんです」
「チョ・ドンウォンか……。確かにフォークの使い手だったな……。無回転じゃないフォークも投げられるのか?」
「はい。まだ完全ではないんですが、何となくボールを挟む力の加減で使い分けられそうです」
「そうか……。それなら確かに大きな武器になるな。まぁ、キャッチャーがしっかり捕ることができるということが前提ではあるが……」
「そうなんです。自分でもどんな変化をするのかわからなくて……」
「まぁ……、このボールが来るって分かっていれば、プロのキャッチャーなら捕れるだろう。大きめのミットが必要かもしれんが……。大事なのは真っ直ぐやスライダーと同じ腕の振りで投げることだ。今の2球目で分かったんだが、このボールを投げるとき、お前、無意識に腕が少しだけ下がってるぞ」
「そうなんですか?」
「ああ、そこは修正する必要があるな。同じ腕の振りで投げられるようにする必要がある。そうじゃなきゃバッターは手を出さん」
「はい」
「来年の開幕戦を直接見に来ることはできないと思うが、海人、楽しみにしてるぞ。確かにお前はものすごく良くなってる。ただし、それはブルペンでの話だ。開幕戦の真剣勝負の場で同じボールが投げられて初めてお前は本物になったと言える。そしたらもう一度、NPBにお前の居場所ができるはずだ。いや、メジャーだって夢じゃないかもしれん」
「本当ですか?」
「ああ。無回転フォークはさておき、お前の真っ直ぐもスライダーもそれぐらい良くなってるよ。今のお前はソフトバンクでもがいてた頃とは別人だ。何がお前を変えたのか、俺にはわからんが、やはり生まれ育った環境で野球に打ち込めるってのは、大きなプラスを生み出すんだろうな」
「はい。それもありますが、支えてくれる人たちや、亡くなった韓国人のライバルの存在が大きいです」
「あの転落死した選手か?」
「はい。高校のときからの知り合いだったんですが、国境リーグで再会してからは親友でした。本当に良い奴で……」
ウソンのことを話す海人は、涙声になり、言葉に詰まってしまった。
「そうだったのか」
「チョ・ドンウォンさんと俺を引き合わせてくれたのもウソンなんです。ウソンが俺にフォークを授けてくれたようなものです」
「そうか、それなら余計に結果を出さなきゃな」
「はい。ウソンの分もっていう気持ちで今は毎日トレーニングしています」
「そうだな。冬場はとにかく走り込め。お前が変わったのは気持ちの部分も大きいが、技術的なことを言うと、下半身の強化が一番だ。毎日相当走り込んでるんだろう?」
「はい。観光道路を走っています」
「海が見えるとこがあって走るには最高のコースだと思うが、きつい坂もあるよな?」
「はい。相当きつい坂もありますが、中学のときから走ってるんで、もう慣れました」
「もう慣れたか……、そうか……」
そう言いながら腕時計に目をやった中村は、
「あっ、すまん海人、松ちゃんのとこに帰らなきゃならん。これから釣りだ。またな」
そう言うと、中村は公園から小走りで出て行った。
公園に残った海人は、いつの間にかサイン用のマジックペンを用意していた3人の小学生にせがまれるまま、彼らのグローブとボールにサインをして、自宅へ戻った。思わぬ中村の訪問に驚いた海人であったが、自身に芽生えていた自信が確かなものになったとともに、「開幕戦で結果を出す」という決意を新たにするのだった。

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