『国境リーグ』Web版 vol.13

国境リーグ Web版
『国境リーグ』Web版 vol.13

36

翌日、再び三島と合流した阿比留と橋本は、午前中に1社、午後に1社、国境リーグへの出資をプレゼンし、午後2時半には予定を終えて博多駅にある喫茶店にいた。翌日、東京で仕事がある三島はすでに東京行きの新幹線ホームへ向かっていた。週末を利用しての出張は、好感触を得ることができ、ふたりはホッとした時間を過ごしていた。帰りの飛行機は午後6時過ぎだ。
橋本の提案で午後3時には博多駅を出て、福岡空港にあるいきつけのレストランで早めの夕食をとることにした。地下鉄の福岡空港駅を出て、対馬行きの飛行機が出るターミナルへ向かっていたとき、橋本が大きな声を出した。
「あっ、スマホ忘れてきた!」
「えっ、どうした?」
「市長、すみません。さっきの喫茶店にスマホを忘れてきました。取りに戻ります」
「そうなのか……。わかった。時間はまだ大丈夫だと思うけど、急いで行ってこいよ」
「市長、間に合うとは思うんですが、万が一、飛行機に間に合わなかったら夜中のフェリーで帰りますんで、そのときは僕の車に乗って帰ってもらえませんか?」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、念のためにキーをお渡ししておきます。もし、僕が間に合わなかったら車は明日、市役所に乗ってきてもらえますか?」
「ああ、わかった。でもこの時間だから間に合うだろう。急いで行ってこい」
橋本は地下鉄の駅の方へ走った。橋本が去った直後、阿比留の携帯が鳴った。辻村からだ。
「おー阿比留? お前まだ福岡にいる?」
「ああ、今、空港だ。6時すぎの便で対馬に帰るよ。昨日はごちそう様だったな」
「そんなみずくさいこと言うなよー。いつでも遊びに来てくれ。ところで今な、レベルファイブスタジアムにいるんだ。うちもアビスパのスポンサーのひとつだからさ。それで今、同じスポンサー仲間の中島なかじま電気の谷山たにやま社長と話してたんだけど、谷山社長が国境リーグに出資してもいいって話になってさー。お前、今、空港にいるならすぐ近くだから、ちょっとこっちに来てくれないか? そこからシャトルバスが出てるからすぐだぞ」
阿比留は、急な話で驚いたが、中島電気といえば太陽光発電で特許とっきょを取得している優良企業である。国境リーグに出資してくれるという話は本当にありがたかった。
「わかった。シャトルバスだな。探して、すぐに向かうよ。ちょっとでもお話させてもらえるならありがたい。すぐに行くから」
そう言って電話を切った阿比留は、夕方とはいえ夏の日差しが照りつける中、シャトルバス乗り場を探し、アビスパ福岡のレプリカユニフォームを着た多くのサポーター達とともにバスに乗り込んだ。スーツ姿の阿比留は、明らかに場違いであったが、気にしてなどいられない。谷山社長の出資を取りつけることができれば、国境リーグにとって大きなプラスになる。バスの出発を待っている時間も含めて20分ほどで阿比留はレベルファイブスタジアムのメインスタンド前に着いた。バスを降りた阿比留は、周囲を探したが、辻村の姿はない。しばらくして携帯が鳴った。辻村からだ。
「阿比留~。ごめ~ん。谷山社長、急用が入っちゃって10分前に帰っちゃったよ~」
「えっ、そうなのか?」
「そうなんだよ~。すぐにお前に知らせなきゃと思ってたんだけど、取引先の社長に会っちゃって、電話できなかったんだよー。ごめーん」
「それなら仕方ないな……」
「でも谷山社長は、また今度ゆっくり話を聞かせて欲しいって言ってたぞ」
「そうか。それならまた今度だな」
「それでな、もうひとつごめーん、俺も用ができちゃってさー。今、タクシーの中なんだけど、これから会社戻らなきゃならないんだ。悪いな~」
「そうか。別にお前といても仕方ないしな。全然大丈夫だ」
「お前、またまたそんな冷たいこと言っちゃって~。とりあえずごめんなー。でも谷山社長はかなり乗り気だったから、改めて話してくれ」
そう言うと辻村は電話を切った。時計を見ると午後4時15分である。急いで空港へ戻ればレストランで食事をする時間はある。しかし、試合開始前の時間では、スタジアムから空港へ戻るシャトルバスはない。歩くと20分以上はかかる距離だ。阿比留が「レストランは諦めるか……」と思ったときだった。携帯が鳴った。橋本からだ。
「市長、今、どこですか?」
「それがな。レベルファイブスタジアムに来てるんだ」
「レベルファイブスタジアム? 何でですか?」
「辻村から電話があって、『中島電気の谷山社長が出資してくれるからちょっと来てくれ』っていうもんだから」
「そうなんですか。それでは今、谷山社長とお話しされてるんですね。それでは切ります」
「いやいや、来てみたら谷山社長も辻村も別の用ができちゃったみたいで、無駄足むだあしになったんだよ。来るときはシャトルバスがあったんだが、帰りはないから、これから歩いて帰ろうと思ってたところだよ」
「そうですか。僕の方は地下鉄のタイミングも良かったんですぐに戻って来て、レストランへ行ったんですが、市長の姿がなかったんで、どこへ行かれたのかと思って電話しました」
「そうか。この時間ならまだレストランで食事する時間はあるから、君は先に食べててくれ、俺はレストランは諦めようかと思ってたとこだけど、君が帰ってきたなら急いで空港に戻るよ。走って帰れば15分くらいだと思うから」
「そうですか。それではレストランでお待ちしています」
「ああ。急いで戻るよ」
電話を切った阿比留は、鞄を抱えて走って空港へ戻った。空港に着くと、阿比留は汗びっしょりになった。シャツを着替えたかったが、着替えは持っていない。仕方なく汗びっしょりのまま橋本が待つレストランへ向かう。レストランで待つ橋本は、コーヒーのみ注文して、阿比留が来るのを待っていた。橋本の向かい側の席に座った阿比留を見て橋本は、
「市長、すごい汗ですね……」
汗びっしょりになった阿比留に驚いた様子である。
「ああ、走るんじゃなかった……。着替えたいが着替えるものもない。とりあえず汗が引くのを待つよ」
「そうですね。僕もまだ食事は注文していません。市長は何にしますか?」
メニューを渡しながら橋本が訊ねる。
「そうだな~……。昨日、辻村のとこでステーキをご馳走になったから、今日はいつものステーキ御膳ごぜんはやめとくとして……。ヒレカツ御膳かな……。あと生ビール。のどカラッカラだからなぁ」
「運動の後のビールは美味しいですからね。僕もヒレカツ御膳にします。僕は車の運転があるんでビールはやめときますけど」
「そうか。俺だけ悪いな……」
「いえ。気になさらないでください」
「そうだそうだ。預かっておいたキーを返しておこう」
そう言うと、阿比留はポケットから橋本の車のキーを取り出して渡した。キーを受け取った橋本は店員を呼んで、ヒレカツ御膳2人前と生ビール1杯を注文した。
「今日は辻村社長に振り回されましたね。また辻村社長が嫌いになったんじゃないですか?」
「いや、腹が立たないんだ。国境リーグの理事になってからのあいつを見てると、本気で国境リーグを成功に導こうとしてくれてるのがよくわかるからかな。損得そんとくを抜きにして、あいつは国境リーグのことを考えてくれてるように、今の俺には感じられる。あんなにあいつを毛嫌けぎらいしてたのにな。今はあいつのことをちょっと尊敬してる俺がいる。自分でも不思議な感情だよ」
「辻村社長が聞いたら喜びますよ」
「あいつに直接言うことは絶対にないけどな」
阿比留と橋本は、レストランでの食事を終えると、予定通り、午後6時過ぎの便で対馬へ戻った。対馬空港から厳原へ橋本の運転で戻ると、橋本の自宅近くの居酒屋で週末のプレゼンの成功を祝った。レストランでヒレカツ御膳を注文したときから、「厳原に戻ったら対馬の新鮮な刺し身を食べる」と、決めていた阿比留に橋本が付き合ったのだ。

37

翌日の正午、市長室で書類に目を通していた阿比留の携帯が鳴った。松尾からだ。
「はい。先輩?」
「おい啓、大変なことになったぞ! 俺のとこや、お前のとこに来た高杉って記者が殺されたらしいぞ」
「えっ、本当ですか?」
阿比留は大きな声を出して驚いた。そして横にいた橋本に「あの高杉って記者が殺されたらしいぞ」と伝えた。橋本も驚いた表情を見せる。
「あの記者がここに来てから、まだ2週間経っていませんよ。どこで殺されたんですか? 東京ですか?」
「福岡だ」
「福岡……」
「さっきやってた昼のニュースによると、昨日、Jリーグの試合があったレベルファイブスタジアムの……」
「レベルファイブスタジアム!?」
阿比留はまた大きな声を出した。
「俺、昨日、レベルファイブスタジアムの前まで行ったんですよ」
「何しに行ったんだ?」
「辻村が谷山電気の社長と会って話をしろって言うから行ったんです。ちょうど福岡空港にいたんで、シャトルバスに乗って行きました」
「ニュースではな、レベルファイブスタジアムの近くの林の中で遺体が見つかったそうだ。背中から深く刺されたようで、刺した相手ともみ合った形跡もあるらしいんだが、人気のないところで、今のところ目撃者はいないって言ってたぞ」
「そうなんですか……。ネットニュースで俺も詳しく見てみます」
そう言って電話を切った阿比留は、パソコンで高杉殺害事件のニュースを検索した。その記事によると、死亡推定時刻は、午後4時~5時の間。まさに自分が辻村に呼ばれてスタジアム前にいたころから、走って空港に戻っているころだ。Jリーグの試合が始まる前でそれなりに人は多かったが、スタジアムから少し離れれば人目につかなかったということなのだろうか。
阿比留は、思いをめぐらせた。週刊誌の記者ともなれば、それなりに危ない橋を渡ってきたのかもしれない。踏み込んではいけないところへ足を踏み入れてしまったのだろう。そのことに高杉自身が気づいていなかったのかもしれない。だから消されたのだ。

その日の夜、午後8時を回った頃、帰り支度をしている阿比留を訪ねてきた人物がいた。すでに橋本は帰宅しており、その人物は、市長室に直接入ってきた。40代半ばくらいだろうか。180㎝はある長身で、半袖のワイシャツにストライプのネクタイをしている。痩せているが、適度に筋肉がついているように見える。
「どちら様ですか?」
阿比留が訊ねる。
「福岡県警捜査そうさ一課の上林うえばやしと申します」
警察手帳を見せながら名乗った。
「捜査一課……」
「昨日、福岡市内で殺害された高杉伸二さんと阿比留さんの関係についてお聞きしたい。それから阿比留さんに任意でDNAサンプルの提出をお願いに来ました」
「DNAサンプル……ですか?」
阿比留は、昨日、事件現場の近くにいたという事実から、もしかしたら捜査関係者が話を聞きに来るかもしれないと漠然ばくぜんと思っていた。それが現実になった。
「まずは少しお話をお聞かせ願えますか?」
「はい。わかりました。どうぞこちらへお座りください」
「ありがとうございます」
上林は阿比留に促されてソファへ腰掛けた。阿比留も向かい側へ座る。上林は事件と関係ないことから入ってきた。
「右手の指に絆創膏が見えますが、怪我されたんですか?」
「ああ、一昨日の夜、ガラスの破片が鞄の持ち手に食い込んでいて、それを知らずに鞄を持ったら切れてしまいました」
「そうなんですか。それは痛そうですね。ところで、殺害された高杉さんですが、阿比留さんは面識めんしきがおありですか?」
「はい。7月の終わりごろ、ここへ来られて取材を受けました」
「何についての取材ですか?」
「ごみ焼却施設の建設業者選定に関することと、国境リーグの前理事長である松尾俊治に関することです」
「簡単にで構わないんで、内容を教えていただけますか?」
その後、阿比留は、高杉が取材に来たときに交わした会話の内容を包み隠さず上林に話した。ごみ焼却施設の建設業者選定については、決して不正はないということを強調して。
「内容はだいたいわかりました。それでは最後に、阿比留さんのDNAサンプルをいただけますか?」
「はい。構いませんが、私のDNAサンプルが必要ということは、私は容疑者のひとりなんでしょうか?」
「そのことも含めて、捜査に関することはお話しできません」
「そうですか……。こんなことを言っても意味ないんでしょうが、昨日、あの時間にレベルファイブスタジアムの近くに私がいたことは事実ですが、私は事件とは全く関係ありませんよ」
そう言うと阿比留は、上林の指導の下、綿棒を口の中に入れて、DNAサンプル採取に協力した。DNAサンプルの提供を受けた上林は、礼を言って市長室を出て行った。

翌々日、阿比留は、午前中、交流センターのイベントホールにいた。この日は長崎に原爆が投下された日で、被爆ひばく体験者3名が来島し講演会が開かれていた。講演会の冒頭で市長として挨拶した阿比留は、最前列に座って講演を聞いていた。ひとり目の話が終わったとき、橋本が歩み寄ってきて言った。
「市長、福岡県警の刑事の方が来ています。市長に来て欲しいと言ってます」
「上林という刑事か?」
「はい」
「わかった。席を外すことわりを言ってから行くよ」
阿比留は主催者席に行き、席を外すことを告げると、イベントホールの外へ出て行った。イベントホールの入口前には、上林を含む3人の刑事らしき男が立っていた。上林は胸ポケットから紙を取り出し、阿比留に見せる。逮捕状たいほじょうだった。
「阿比留啓、高杉伸二氏殺害容疑で逮捕状が出ている。午前11時5分、通常逮捕します。この後、博多警察署まで連行します」
「えっ、ちょっと待ってください! 完全に何かの間違い……」
上林は阿比留の言葉をさえぎった。
「話は署で聞きます。12時30分発の飛行機で福岡へ向かいます」
上林がそう言うと、ふたりの刑事が阿比留の左右の腕をつかみ、阿比留は交流センターの前に停めてあった警察車両まで連れていかれた。手錠こそ掛けられなかったが、大柄な男ふたりに左右の腕をがっちりつかまれた阿比留は、身を任せるしかなかった。それでも言葉では「何かの間違いだ!」「話を聞いてくれ!」と、ずっと大声で叫んでいたが、上林らはまるで聞こえていないかのように無視し続けた。
対馬南署が用意した警察車両で対馬空港へ連れて行かれた阿比留は、上林が言った通り12時30分発の飛行機で福岡へ向かった。福岡空港からは、博多警察署の警察車両で博多警察署へと移送され、博多警察署に到着すると、すぐに取り調べが始まった。取り調べが始まって、上林がようやく阿比留の話を聞く姿勢を見せるようになった。
「さぁ阿比留さん、取り調べを始めます。まずはあなたに逮捕状が出た理由をお話します」
「お願いします」
もう阿比留は冷静になっていた。交流センターから対馬空港へ向かう車の中で、「今、何を言っても聞いてもらえない」と悟っていたからだ。取り調べが始まり、阿比留は、ようやく自分の主張を聞いてもらえるときがきたと思った。
「高杉氏は背中から肺に達するまで深く刺されていました。Jリーグの試合が終わって帰る観客のひとりが高杉氏の遺体を発見したときには背中に凶器が刺さったままでした。その凶器に指紋は付着していませんでしたが、微量の高杉氏以外の人物の血液が付着していたのです。その血液のDNAが阿比留さん、あなたのDNAと一致しました。しかも死亡推定時刻に近い時間の現場付近の防犯カメラにあなたが走って空港方面へ向かっている姿が映っていました。尚且つ、あなたは右手の指の内側を怪我している。また、あなたは2週間前に高杉氏の取材を受け、ごみ焼却施設建設の業者選定に関する疑惑を追及されています。これらは、高杉氏を殺害したのは、阿比留さん、あなたであると断定するに十分たる証拠なんです」
反論したいことは山ほどあるのに、阿比留は絶句してしまった。「これほどまでに証拠をそろえられているとは……」。冷静にひとつひとつ提示された証拠に反論していった阿比留だが、どうしても反論できないものがあった。凶器についていた血液のDNAが自分と一致したという点だ。その点を上林に言われると、「自分もわからない……」としか言いようがなかった。
その後、阿比留は、福岡地方検察庁へ送検そうけんされた。そして裁判官による勾留こうりゅう質問を受けて、裁判官が勾留決定。勾留期間は20日間まで延長され、阿比留は起訴きそされた。

38

当然ながら、阿比留の逮捕は大々的に報じられ、同時に対馬市の市政は大混乱に陥った。議会は解散を恐れて、不信任決議は行わず、辞職勧告かんこく決議にとどまったが、市民の間には市長の辞職を求めるリコール運動が広がっていた。
そんな中、前日に阿比留が起訴されたことが報道された9月2日、松尾とグニョンは立亀岩に登った。グニョンにとって、ウソンの死は、未だ受け入れがたい現実であるとともに、どうしても単なる事故であると思えなかった。そしてウソンの事故と阿比留の逮捕は無関係であるはずがないという確信に近い強い思いが芽生えていたからである。それは、ウソンが辻村のスタジオを見学して帰ってきた直後に、ウソンがグニョンだけに話していたことがあったからだ。ウソンは、博多から帰ってきた日の昼ごろ、グニョンがいる国境リーグの事務局へ土産を持ってやってきて、グニョンだけにこう話していた。
「僕、博多港に着いて天神まで歩き出したとき、あの人が彼女と喧嘩しているところに遭遇して、隠れようとしたけど見つかってしまったんだ。あまりよく聞こえなかったんだけど、彼女は『そんな恐ろしいこと』って言ってたんで、すごく気になってたんだけど、辻村さんは『忘れろ』って言うから忘れることにする……」
そう話しながら、ウソンがそっと指さした「あの人」は、国境リーグ事務局の入り口前で松尾と話していた。
ウソンがいう「あの人」とは、市長秘書の橋本である。
阿比留が逮捕されてから、グニョンはこのことを松尾に話した。松尾には、阿比留が殺人を犯すはずがないという絶対的な確信があり、グニョンと思いをひとつにしていた。必ず何かからくりがあると。
ウソンが、なぜ立亀岩から転落したのか、警察の発表通り本当に足を滑らせたのか、それを確かめるために松尾とグニョンは、立亀岩へ登ってきた。
松尾とグニョンが頂上へ着くと、ひとりの背の高い男性が立亀岩の端の方に立って海を見ていた。彼の足元には、花が手向けられていた。その男性が、韓国から来たウソンの知り合いだと思ったグニョンが、男性の背後から韓国語で声を掛けた。
「こんにちは。ウソンの知り合いの方ですか?」
グニョンの声を聞いた男性は振り向いて答えた。
「あっ、こんにちは。日本人です」
「そうでしたか。1か月ほど前にここから転落死した韓国人のウソンくんの知り合いの方かと思いました」
松尾がその男性に言った。
「私、福岡県警捜査一課の上林と申します」
上林は、松尾に警察手帳を見せながら言った。
「福岡県警の刑事さんでしたか……」
「私、週刊『SHINSO』記者の高杉伸二氏殺害事件を担当しております」
「啓の……、阿比留の事件ですか……」
「はい」
「阿比留の事件を担当しておられる刑事さんが、なぜ立亀岩に?」
「はい。警察、検察ともに、DNAをはじめとする証拠から、高杉氏殺害事件の犯人は阿比留氏であると断定し、先日、阿比留氏を起訴する運びとなったんですが、どうしても私の中で収まりがつかない点がありまして……」
上林の言葉を聞いた松尾は、もう我慢できなかった。
「当たり前です。収まりがつくわけがない。啓は、阿比留は100%犯人ではありませんよ。私は、あいつを子どもの頃からよく知っていますが、あいつほど誠実な人間を知りませんから。そんな啓が人を殺すわけがない」
「そうですか……。ところで……、どちら様でしょうか?」
松尾はまだ名乗っていなかった。
「ごめんなさい。申し遅れました。私は、松尾俊治と申します。すでに辞任しておりますが、国境リーグの理事長をやっておりました。阿比留とは幼なじみです。こちらは国境リーグの事務局で働いている韓国人のコ・グニョンさんです。ここから転落死したユ・ウソンくんの幼なじみでもあります」
「コ・グニョンです。はじめまして」
グニョンも上林に近寄って挨拶した。
「福岡県警の上林です。先程も申し上げましたが、DNAをはじめとする証拠から、阿比留さんが犯人であると断定せざるを得なかったんですが、あくまで私の個人的な見解として、阿比留さんはシロだと思っています。本当はこんなことを警察関係者以外に話してはいけないんですが……」
3人以外は誰もいない立亀岩の頂上だが、最後の方は、上林は小声になった。
「上林さんがそう思われる根拠こんきょは何ですか?」
松尾が聞いた。
「よくテレビの2時間ドラマで証拠がそろいすぎていて、容疑者は真犯人にめられたっていうのがありますよね。今回の事件はまさにそれなんです。DNAも防犯カメラ映像も、阿比留さんの殺害動機も、阿比留さんの手の怪我も、なんだか出来すぎているんです。何より私が最初に阿比留さんのところへ行き、DNAサンプルの提供をお願いしたときの阿比留さんの表情です。何の迷いもなく綿棒を口に入れました。もし阿比留さんが犯人なら一瞬ためらいが見えるものなんです。それが全くなかった。なかったんです。あれは自分が犯人ではないからこその表情でした」
「当たり前です。阿比留は犯人ではありませんから」
松尾が自信たっぷりに言う。
「それでは、阿比留さんが犯人ではないと仮定すると、誰が犯人なのかということになりますが、それがわからないんです。阿比留さんは取り調べで『自分は辻村と橋本に嵌められた』ってずっと訴えているんですが、辻村氏は、あの日の試合前、たしかにレベルファイブスタジアムにいて、多くの他のスポンサーの人と会話をしているんです。阿比留さんが辻村さんに呼ばれるきっかけになったと言っている谷山社長とも長く話をしていました。辻村さんは、高杉氏の死亡推定時刻には、ずっと誰かと話をしているか、タクシーの中だったんです。タクシーの車内映像も確認がとれました。辻村氏には犯行は不可能なんです」
「橋本さんはどうなんですか?」
グニョンが聞いた。
「市長秘書の橋本さんは、阿比留さんと地下鉄の福岡空港駅に着いたときにスマホを博多駅の喫茶店に忘れていたことに気づいて、取りに戻っているんですが、それも博多駅の防犯カメラ映像で確認できました。喫茶店の人もスマホを忘れて取りにきた人がいたことを覚えていたので、橋本さんにも犯行は不可能です」
上林の説明に松尾もグニョンも納得するしかなかった。しかし、グニョンは上林が刑事であると聞いたときから伝えなければならないと思っていたことがあった。
「刑事さん、私、刑事さんに伝えておきたいことがあります」
「何ですか?」
上林は少し驚いた表情になった。
「私、ウソンから聞いていたんです」
「何を?」
「ウソンが事故にあう少し前、福岡の辻村さんのスタジオを見学に行ったとき、博多港の近くで橋本さんと彼女が言い争いをしてるところにばったり会ってしまったことです」
「どんな言い争いだったとウソンさんは言ってたんですか?」
「はい。それが、ウソンは日本語が完璧ではなかったので、完全には理解していなかったんですが、橋本さんの彼女は橋本さんに『そんな恐ろしいこと』って言ってたそうです」
「なるほど……、恐ろしいことですか……。確かに気にはなりますが、人によって恐ろしいことにはいろいろありますからね」
ここで松尾が思い出したように口を挟んだ。
「さっきは興奮しちゃって、聞きそびれてしまったんですが、刑事さんは、なぜ立亀岩に来られたんですか?」
「さっきも言いましたが、阿比留さんは、『自分は辻村と橋本に嵌められた』と、一貫して言ってるんです。手に怪我をしたのも前夜、辻村さんの家にいたときにガラスの破片を鞄の持ち手に仕組まれたからだと言っています。それで私も辻村さんや橋本さんの事件当時のアリバイを調べたり、個人的なつながりなども調べたりしているんですが、高杉さん殺害事件の1週間前に辻村さんはウソンさんの事故に関わっていますから、対馬南署の協力を仰いで、調書を見せてもらって、辻村さんの供述と、目撃者の韓国人観光客の供述に齟齬そごがないか、現場に来て調べているところでした」
「私、ウソンが事故にあう前日の夜、一緒に食事をしたんです」
グニョンが上林に言った。
「そうですか。そのとき辻村氏に何か変わった様子はありませんでしたか?」
「変わった様子はなかったんですが、辻村さんが立亀岩に行きたいと言い出したのは確かです。その場には、私とウソン、もうひとり国境リーグの厳原のチームの選手がひとりいました。その3人の中の誰かに翌日の午前中、一緒に行って、写真を撮って欲しいと言っていました。でも、私は国境リーグの事務局での仕事がありますし、厳原の選手は練習があったので行けなくて、午後にプサンへ帰る予定だったウソンだけが空いていて一緒に行くことになりました。今になって考えてみると、辻村さんはウソンだけ予定が空いていることを知っていたのではないかと思えてしまいます」
「なるほど……。興味深いことを聞かせてもらいました」
上林は腕組みをして何かを考えているようである。
「刑事さん、私は辻村という男のことはよくわかりません。ただ、国境リーグの理事になってからの辻村は、私たちが考えていることの先へ先へと思考がいっているのは確かです。実際、ウソンくんが事故にあい、心臓が三島さんの息子さんへ移植されたことで、国境リーグは大きく注目を集めることになりました。そして阿比留の逮捕でも別の意味で国境リーグは注目を集めています。阿比留と辻村は高校の同級生ですが、選挙のときや、国境リーグで、あれだけ世話になった辻村を、阿比留は心から信頼できていません。阿比留が辻村に嵌められたと言っているなら、私もそうだと思います。このままでは冤罪えんざいを生んでしまいますよ」
松尾は上林に阿比留の無実を訴えたかった。
「私も決して冤罪を生んではいけないと思っています。阿比留さんが言うように辻村氏と橋本氏に阿比留さんが嵌められたのであれば、証拠が必要ですし、ふたりに高杉氏を殺害することは不可能だったわけですから、そうなると実行犯が別にいるはずです。それが誰なのか、また辻村氏と橋本氏が阿比留さんを嵌めて、高杉氏を殺害する動機は何なのか、今の段階では、何もわかっていません。これから辻村氏や橋本氏について、深く調べてみようと思います。おふたりも何か気づいたことがあったら連絡してください」
そう言うと、上林はふたりに名刺を渡した。
「わかりました。何か気づいたことがあったら連絡します。なぁグニョン」
「はい」
松尾とグニョンは上林に深々とお辞儀をした。上林は軽く敬礼をして立亀岩を降りていった。立亀岩に残った松尾とグニョンは、ウソンが転落する前に見たであろう頂上からの景色を眺めた。松尾は、「啓、俺が必ずお前の無実を証明してやるからな。待っていてくれ」と誓いながら。グニョンは、「ウソン、あなたは本当に足を滑らせてここから落ちたの? 私に教えて」と、天国のウソンに話しかけるように。

コメント

タイトルとURLをコピーしました